第六集 襄武城の刺客
満天の星空は雲ひとつなく、風も穏やかな夜であった。
客桟から見える大通りの静けさを見て、緑風子は正面から行けると主張したのだが、他の二人が信用しない為、単身で正面から向かうという話になったのである。
仮に正面から入るのが失敗した場合、そのまま敵を引き付け、屋根の二人が侵入するという二段構えである。
「ま、そんな心配はいらないけどねぇ」
あくまで自信満々の緑風子は、穏やかに微笑みながら鼻歌交じりに歩いていく。足取りがしっかりしている点を除けば、通りすがりの酔っぱらいに見えなくもなかった。
そんな緑風子に並走するように、他の二人は屋根伝いに進んでいく。
目的地の県庁までは、元より百歩の距離も無かったのですぐに到着する。入り口の門の前に
「やぁやぁこんばんわ! 見張りご苦労さん!」
番兵に陽気に話しかける緑風子。番兵は顔を見合わせると、溜息を吐いて面倒臭そうに言う。どうやら酔っぱらいと思ったようだ。
「この先は政庁だ。酔っぱらいは帰ってさっさと寝ろ」
「それは分かってる。君たちはただ、見張りを続けてくれればいいのさぁ」
緑風子は両手を広げたかと思うと、抱き寄せるように二人の肩を掴んだ。そこで三人の動きが止まる。
屋根の上から見ていた趙英と呼狐澹は何事かと目を凝らすと、番兵から手を離した緑風子が、変わらず鼻歌交じりに門の中へ入っていく。番兵は緑風子を止めるでもなく、直立不動のまま動こうとしなかった。
「え、何? 何が起きたの?」
状況を理解できない呼狐澹が趙英に訊ねた。趙英は静かに言う。
「手元の細かい部分は見えなかったが、たぶん
「点穴?」
「人間には、肉体を司る
「
「俺は基本の知識はあるが得意というわけじゃない。とにかく、今のあれは点穴で全身を麻痺させて動きを封じたんだろうよ。あのクソ道士、あんな事もできたのか……」
県庁の門の周りは、直立不動の番兵以外、人影はまるで無かった。二人は緑風子の言葉通りの展開になった事に少々の悔しさを覚えつつ、屋根から降りて門に入っていく。
門を入った所で立ち止まって待っていた緑風子は、さも当然といった様子で話を進める。
「それじゃ僕は牢に出向いて捕まってる県令たちを解放してくるから、首領は君らに任せるとしよう」
そう言って迷いのない足取りで牢の方へと向かっていく緑風子を見送ると、趙英は溜息を吐いて頭を掻く。主導権を握られている事が不快だった。まるで緑風子の指示に全力を出すかのような立ち位置がどうにも腹立たしかったが、下手に手を抜いて失敗し無能者と思われるのはもっと癪である。
そんなやり場のない苛立ちを理性で抑え込もうとしている趙英を横目で見ながら、今は話しかけない方が良さそうだと思う呼狐澹であった。
県庁敷地内を歩くと、すぐに違和感に気づいた。いくら夜中とは言え、門の内側にはまるで巡回兵の気配がなく、どこからか血の匂いもしていた。趙英と呼狐澹は、その事にほぼ同時に気づいた。
「これって……、どういう事なんだろ?」
困惑した様子で訪ねてきた呼狐澹に、趙英は考え込んだまま返答できず、ただ無言のまま奥へ歩みを進めた。
政庁の奥へ行くと、通路に兵士が倒れている。床に血をまき散らしてまるで動いていない。もう無駄だろうと思いつつ脈を確認すると、既に息絶えていた。だが体はまだ温もりが残っていて、血も固まってはいない。殺されてまだ間もないという事で、この犯人はまだ近くにいるはずである。
そこに思い至り、警戒するが早いか、通路の奥から悲鳴が聞こえ、続いて人の逃げる足音が聞こえた。
趙英と呼狐澹は、互いに言葉を交わすでもなく音の方向へと走り出す。
途中の通路や部屋には、何人かの惨殺死体が転がっていたが、今はまず生存者と犯人の確認が先である。
音の向かった先は建物の外。二人がその背中に追いついた時、生存者は慌てた様子で県庁の裏門を開けた所であった。
次の瞬間、開けた扉に手をかけたまま、その者の首が飛び、ゴロゴロと音を立てながら地面を転がる。残された体の方は首からドクドクと血を流しながらその場に崩れ落ちた。
そして開いたままの裏門から、五尺(一二〇センチ)はありそうな朴刀を持った人影が現れた。夜の闇の中であるが、月明かりも門前の篝火もあり、うっすらその姿が確認できる。
顔に大きな傷痕のある、長身痩躯の侠客。
それは数時間前まで
侠客は血まみれの朴刀を軽々と振るって肩に担ぐと、趙英と呼狐澹に視線を向ける。
「誰かは知らんが、見られたからには死んでもらおう」
そういうが早いか、次の瞬間には趙英の目の前に巨大な刃が振り降ろされようとしていた。文字通りの目にも止まらぬ動きで、振り返るよりも先に趙英に突き飛ばされていた呼狐澹。尻餅をついて顔を上げると、鞘から抜き放たれた剣でその刀身を受け止めている趙英の姿が目に入る。
趙英は余裕のない表情で侠客を見つめる。受け止めた刃からも内功の強さが伝わってきており、相手がかなりの使い手である事を一手で理解した。
だがそれは相手も同じであった。必殺の一撃を細身の剣で受け止められてしまったのだから。
後ろに飛びのいて距離を取った侠客は、そのまま数歩の距離を取ったまま、趙英と睨みあいとなった。お互いに相手の間合いギリギリのところで隙を伺う。
その間に割って入ったのは、その場にいたもうひとり、呼狐澹である。無言で短弓を構えた呼狐澹は、束ねた三本の矢をまとめて放つ。
侠客はその矢を払い避けるのに朴刀を振るった。そこに出来た隙を趙英は見逃さず、相手の右手首を狙って刺突を放つ。武器を持つ手を狙ったのである。侠客も趙英の刺突に気づいたが、刀を返すにも回避するにも一瞬の時間が足りなかった。
刃が肉を貫く手ごたえを感じた趙英だったが、すぐにそれが狙った右手首ではない事に気が付く。侠客は右手首をかばい、左手の甲を犠牲にしたのである。無論の事、その手の甲には内力が込められている為に貫通まではしていない。
趙英も侠客も互いに険しい表情を見せる。趙英は剣を引き抜くと再び間合いの外に出た。
その時、県庁の建物内で大勢の足音が聞こえた。どうやら緑風子が牢から解放した県令と、共に掴まっていた兵士たちであるようだ。
思わぬ強敵、そして多勢に無勢と見るや、侠客は趙英を警戒したまま裏門の外へ逃げ出す。少なくとも彼の当初の目的は達成していた以上、長居は無用であった。
短弓を携えたまま、裏門から出ようとする呼狐澹を趙英は制止する。
「深追いするな! 相手の腕前は見ていただろ。こんな夜中だ、返り討ちにあうぞ」
趙英の言葉に渋々といった様子で足を止めて弓をしまう呼狐澹であったが、その表情は怒りに燃えている。まだ出会って間もないが、呼狐澹のそのような表情を、趙英は初めて見た。
「どうしたんだ、
「オレの家族を殺したのは、あいつだ……。間違いない……」
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