第二集 対等の取引

 さて三人が涼州の隴西ろうせい郡は狄道てきどう県の県城に着いた頃には、すっかり陽が沈んでいた。御者は近くの客桟やどやに三人分の部屋を取ると、夕食の支度をさせ、酒場も兼ねる店内に卓を取った。そして他の二人にも卓へ座るように促す。


「これでようやく、のんびり話も出来るな」


 ここに来る間は砂埃の混ざった強風が吹き荒んでいた為に会話どころでは無く、ここに来てようやく会話らしい会話が出来るようになったのである。

 席に着いた御者は、ていという一介の行商であると名乗って他の二人に自己紹介を促した。


「オレは呼狐澹ここたん!」


 胡人こじんの少年は屈託のない笑顔でそう名乗った。


きょう族かい?」

「いや、南匈奴みなみきょうど


 呼狐澹は丁の質問に特に気を悪くするでもなく答えた。


 中華王朝はいつの時代も周辺異民族との関係に苦しんでいた。この後漢末の時代の涼州は北は匈奴きょうど鮮卑せんぴ、西はきょう族とてい族、複数の遊牧騎馬民族と接していた。

 その中でも漢人との共存を望んだ匈奴の一部部族は、北部の国境城壁である長城の内側で暮らす事を正式に許されており、特に南匈奴と呼ばれていた。


 無論の事、江湖よのなかはそう簡単ではない。彼ら南匈奴を快く思わない漢人も少なくはなく、一括りに夷狄いてきと呼ばれ、恐れられたり差別や偏見に晒された。

 故に彼らは信頼を勝ち取る為、各地の漢人たちに傭兵のような形で協力し、率先して漢人の為に戦ったのである。


 後の歴史にて、周辺異民族の侵攻により漢民族滅亡の一歩手前までに至る五胡十六国時代の引き金は、皮肉にも南匈奴によって引かれる事になるのだが、それはまだまだ先の時代の話である。


「それで、お前さんは?」


 丁は麗人の方に話を振る。


「姓はちょう、名はえいあざな慧玉けいぎょくだ。剣を少々やる」


 丁寧だが、どこか不機嫌そうな顔で麗人は名乗った。


「それで、その装いは何か意味があるのかい?」


 趙英と名乗った麗人は、眉をひそめたまま何も答えずにいた。その質問に対する間の長さに、丁は失敗したと思い、冷静さを装いつつも慌てて言い繕う。


「……こいつは、訊いたらマズかったかな?」

「……いいや、訊くのはあんたの自由さ。長い話だから、答えたくはないがね」


 趙英は口元を緩ませると静かに、しかしやはり不機嫌そうに眉をひそませてそう言った。


 独りで砂漠をうろつく南匈奴の子供に、素性の知れない不愛想な男装の女侠。一緒にいると面倒事が向こうから寄ってきそうな予感しかしない。命の恩人であるがゆえ素直に感謝はしているが、正直深入りもしたくはない。

 丁はそう思い、明日には礼を言って別れようと決めた。


 その後は互いに距離感を探りながら、当たり障りのない世間話をして夕食を終えると、解散して寝床に向かった。



「趙大姐ねえさん!」


 寝床に向かう趙英を、呼狐澹が呼び止めたのだが、振り向いた趙英のしかめ面に思わず立ち止まる。


「……何?」


 鋭く睨み付けられた上での刺のある物言いに躊躇するも、呼狐澹は意を決したように切り出した。


大姐ねえさんの腕前を見込んで頼みたい……。オレを……、弟子にしてくれ!」

「……は?」


 全く想定していなかった頼みに対し、答えに窮する趙英。その様子を省みる隙もなく、呼狐澹は話を続けた。


「実はオレ、家族の仇を追ってるんだけど、正直な所、馬術と弓術しかできなくて、でも仇を追うなら絶対に白兵戦ができる方がいいわけだけど、独学じゃどうにも上手くいかないし、頼めそうな人も周りにいなくて、そんな時に砂漠で大姐ねえさんに出会って、これを逃したらもう機会は……」

「待って待って、待てって……」


 早口で延々とまくし立てる呼狐澹を制止する趙英。


「やっぱりオレなんかじゃダメか……」

「いやそうじゃなくて」


 先走って肩を落とす呼狐澹に向き直った趙英は、大きく息を吐いてゆっくり話し出す。


「正直、俺は弟子を取れるほどの身分でも腕前でもない」

「いやいや、そんな事はないでしょう」

「聞けよ」


 趙英にギロリと睨みつけられた呼狐澹は、わざとらしく歯を食いしばるように口を閉じて耳を傾ける。


「全ての技を教える事はできないが、基礎なら教えてやれる。あと師父しふだの師母しぼだの呼ぶのも無しだ。これは師弟関係じゃなくて、対等の取引として」

「対等の取引……?」

「弓術が得意と言ったろ?」

「弓を教えればいいの?」

「いや、俺が教わっても意味が無くてな……」


 趙英は少し言いにくそうに呟く。


「遠目が利かないんだ……俺」

「え……?」

「目が悪いんだよ……。まぁ読み書きとか、剣の間合いなら問題無いんだが……、五歩以上先になると霞んじまうから、弓を習っても狙いがつかないんだよ……。だから技を教える間は当然一緒に旅をする事になるだろうが、その間は、必要になったら狙撃と斥候を頼みたい……。それでいいか?」


 呼狐澹は肩透かしを喰らった気分であった。ここまで簡単に承諾してくれると思っていなかった事と、あれほどの達人に意外な弱点があった事で、一気に緊張の糸が切れて笑いが零れた。


 一方の趙英は、いきなり腹を抱えて笑いだした呼狐澹に少し気を悪くして詰め寄る。


「いや、いいのかそれで……? どっちなんだよ!」

「ごめん、いいよいいよ、全然いい!」

「正直、砂漠ではあの賊徒より、お前の矢の方が怖かったからな……。敵じゃなくて良かったって本気で思った」

「へへっ……、それはお互い様さ」


 卓で自己紹介をした時は互いに様子を伺っていた二人だが、ここでようやく打ち解け、互いに微笑みあった。


 幸いにも趙英の弱視は症状が軽い事もあり二人は軽く笑いあって流したが、この時代はまだ眼鏡という補助器具が存在しない時代だ。つまり全ての人間が裸眼で生活する事になる。

 視力の弱い人間は、戦場で武器を振るう事も、読み書きを習う事も、助けが無ければ日常生活さえ出来ない者もいる。この時代の弱視はほとんど盲目と同じような扱いの重い障害であった。

 例え症状が軽いと言えど、趙英の悩みが如何ほどであるか想像に難くない。


 さてここに至り、呼狐澹はひとつ合点がいく事があった。


「あー、あれか……、やたら睨みつけてたのって、機嫌が悪かったんじゃなくて、目が悪いからか」


 無邪気に呟く呼狐澹の言葉を聞いて、趙英は不安げ聞き返した。


「俺、そんなに怖い顔してんの……?」

「うん……。丁さんも引いてたじゃん」

「……そっか」

「眉間のしわとか凄い事になるし……、ほらあれ……、何だっけ……、あれ……、えっと……、漢人のことわざの……」


 呼狐澹は腕を組んで少し考え込むと、ポンと手を打ってそれを思い出した。


西施せいしひそみならう!」

「倣ってねぇよ殺すぞ」





※西施の顰に倣う


 西施とは、春秋時代の呉越にいたと言われる絶世の美女。

 肺病を患っていたとされ、たびたび発作に苦しんでは、眉間に皺を寄せて息を荒げる姿が逆に艶やかで、男たちの目を引いたと言われる。

 その噂を聞いた醜女が、街中で同じように眉間に皺を寄せて息を荒げると、道行く男たちは距離を取り、子供連れの母親は子供を抱えて家の中に連れ帰るといった有り様になったそうな。

 ここから、上辺だけ真似をする事を「西施の顰に倣う」と言うようになった。





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