15:透明《エア》
「
「――ロ、ロ」
「さっき牛二頭を喰ったばっかりだろ?」
こいつと出会ったのは、夏が始まる前のことだった。
すっかりここに居着いたエアは、俺が抱えてきた池の氷をゴリゴリと囓っている。それでもまだ足りないのか、こいつは鼻を鳴らしながら何かをせがむように小さく鳴いた。
「ロ!」
「わかったって」
溜息を吐きながら、持っていた
「ロロン!」
数匹の
こいつは時々――週に一度くらいの頻度で牛を喰ったり、
それに、この巨大なドラゴンは出会った日以降、この場所からほとんど動いているところを見ていない。僕たちが見ていない間に、糞だけは数歩先の開けた場所にしているみたいだけど。
この激臭がする巨大な糞を決まった場所にしてくれる習性は、とても役に立っている。というのも、龍の糞というのは獣除けとしても、肥料にも使えるのだ。こいつが定期的に糞をしてくれるお陰で、村はとても助かっているらしい。
こいつの餌代をどうしようかと最初の頃は頭を悩ませていたが、龍の糞と引き換えに牧場や農家が肉やクズ野菜を譲ってくれるようになった。この巨大なドラゴンに怯えていたのがウソみたいにみんな僕やエアによくしてくれている。
それに、兄貴と親父も変わった。こいつが来たばかりの頃は、いつエアが暴れてもいいように二人は遠出を控えていた。でも、今では王都への遠征にも参加する頻度を増やしたみたいだ。エアがいれば大きなドラゴンは村に来ないから、村を空けても平気だろうと思ったらしい。
それに、王都の王様が代替わりしてから
でも、寂しくはない。エアと毎日顔を合わせているお陰だ。最初の頃よりも、意思疎通が捗るようになった。当然、人と獣やドラゴンは完全にわかり合うコトなんてできないんだけど。でも、身振りや手振り、声の調子や視線でお互いに敵意や害意がないことや、したいことを伝えることや、歩み寄ることは出来る。
機嫌の良いときのエアは琴の弦を弾いたような音を出すし、寝ているときはゴロゴロという低い音を発している。いびきみたいなものなんだろう。
僕が
「よく眠るなあ。だから、たくさん食べなくても大丈夫なのか?」
寝ているエアの鼻先を撫でながら、僕は独り言を漏らす。
食欲がないことや、動かないことから、何かの病気なのかもしれないと、体を見たり、村の獣医を呼んで調べて貰ったこともある。
でも、こいつは規格外のドラゴンで、獣医には「何が以上で何が普通なのか判断が出来ない」と言われてしまった。まあ、出会った頃よりもこいつは元気になってきた気がするし、動かないことも小食なこともきっとこいつの性質なんだろうと思うことにした。
なんとなく、下腹部が少し不自然に膨らんでいる気がするけど……脂肪か、栄養を蓄える器官なのかもしれない。
両翼の飛膜は薄いがしなやかで、張りがある。翼を支えている肢骨は先端が鋭いかぎ爪の形をしているが、研がれていないのか先端が丸まっているから触っても怪我をすることはない。
「なあ、お前は
瞼をぴくりと動かしたエアの前脚に腰掛けて、乳白色の爪を触ってみると、ほんのり温かかった。
「僕は、母さんに空の龍と仲良くなる唄を教わったんだぜ?」
硬くてゴワゴワする鱗に寄りかかりながら、僕は母さんから教わった唄を口ずさむ。
「空に恋をした雨を乞う龍よ。わたしは誓います、あなたと共にあることを。わたしは願います、あなたが空に愛されることを……虹色の角が輝き空と太陽があなたを祝福するとき、わたしとあなたは結ばれるでしょう」
「ロ、ロ」
ゴロゴロと言う音を響かせたまま、エアが小さく鳴いた。寝ぼけているのか唄を気に入ったのかはわからないけれど、なんだか胸が温かくなってくる気がする。
母さんが死んでから、歌ってなかったけど、こいつに聞かせられて良かった気がする。
「お前を見た時は、
最初に出会った日の翌日、兄貴が親父を連れてエアの前にやってきた。
あの時の親父の渋い顔は、今思い出してもちょっと笑える。
「大きいのはすごいけど、まあ、
この大きいだけの大人しいドラゴンに僕は名前を付けることにした。初めてこいつと出会った時、岩に擬態していてそこにいると気が付かなかったから、
名前を気に入ってくれたのか、何度も呼び掛けながら世話をしている内に短く「ロン」と鳴いて返事をしてくれるようになった。
「今のうちに虫除けを塗ってやるか」
虫除けの香草を浸した水に、針龍のヒゲで出来たブラシを突っ込む。
癖のある柑橘系のような香りがする水をたっぷり含んだブラシでエアの鱗を磨いてやりながら、独り言を言った。
鱗は磨くと俺の顔や周りの景色を写すくらいに透明になる。けれど、エアが鱗を立てて体を僅かに震わせるとすぐに元の艶も色も失ったような地味な灰色に戻ってしまう。
「ロ、ロ」
「はいはい」
大きな頭を少しだけ動かしたエアが、自分の両翼を顎で指す。
翼も磨けというおねだりだ。
俺が体をよじ登りやすいように前脚まで出してくるのだから、抜け目がない。
ドラゴンは体が大きくなればなるほど気難しくなるし、人間に慣れにくいなんて誰かが言ってたけど、少なくともエアはちがうんじゃないかって、翼膜をブラシで磨かれて心地良さそうにいびきをかいている巨大なドラゴンを見ながらそう思った。
「なんだ」
絹を切り裂くような声と唸り声が遠くから聞こえた気がして、顔を上げると、同時にエアも頭を持ち上げた。
首を伸ばして、遠くまで見たエアが「ロ、ロ」と短く鳴く。
「どうした」
目を見開いたまま、エアはじっと村の方を見て動かない。音はだんだん近付いてくる。
異変の正体を知りたくて、僕はエアの背びれをよじ登って頭の方まで移動した。
「――ロ」
小さく鳴いたエアが、普段は閉じたままの翼を大きく開いた。頭を覆うように広げられた翼で視界が遮られる。
「なんだよ」
文句を言った直後に、熱風が頬を撫でた。
今は冬だよな?
信じられない熱さの風が通り過ぎたことに驚いて、声も出せずにいると、エアが広げていた翼を下へ下げた。
目の前に広がっていた森は焼け焦げて、炭と化した木が、黒い煙を上げながらぶすぶすと不穏な音を立てて崩れる。
森の向こうに街があったはず……。でも、目の前にあるのは真っ黒に焦げた大地と瓦礫の山だ。
何が起きたかわからない。瓦礫の山の上に赤い影が見える。
村の大聖堂よりも大きいその影は、ゆっくりとこちらに近付いている気がした。
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