8:擬態と期待

「……ン、……ロン」


 張り詰めた弦が弾かれて楽器のような音を立てる。音が小さい。

 何度も、何度も弦を弾く。

 雨乞い龍パルジーニヤの鳴き声にそっくりな音を立てている影が、上空からゆっくりと降りてくる様子に、泥岩河馬べへモトは予想通り反応をした。


 動きを止めた泥岩河馬べへモトがこちらを見る前に、首からぶら下げていた角笛に思い切り息を吹き込む。

 空を割くような大きな音が鳴り響き、ヴォルトが少し不満げに「グァ」と鳴いた。

 ヴォルトの機嫌を取るために首をさすってやりながら足元を見ると、さっきまで猛り狂って家の壁に体当たりをしていた巨大な岩みたいな獣は、後ろを見もせずに一目散に森の中へと戻っていく。

 

「追いかけるぞ」


「ガァ」


 木々をなぎ倒しながら走って行く泥岩河馬べへモトを、上空から追いかけるうちに、俺たちは水辺へとやってきた。


「ここで回ろう」


「ガ!」


 腕で空気をかき混ぜるような仕草をしてみせる様子を、視界の隅で見ていたヴォルトは短く鳴いた。

 右翼を下にして体を斜めに傾けたヴォルトの首に、俺はしっかりと腕を回してつかまった。

 ぐるぐると空中を旋回しながら、水辺の周りを飛んでいるヴォルトの背に乗りながら、俺はどこかに隠れている泥岩河馬べへモトを探すことに尽力する。

 体についた泥とゴツゴツとした肌は保護色になって見つけにくいが、よく注意をすれば雄牛ほどもある巨体は見つかるはずだ。

 弓の弦ではなく、もう一度角笛を鳴らす。じいちゃんと一緒に雨乞い龍パルジーニヤを見に行ったとき、確か怒ったあいつらは、こんな風に鳴いていた気がする。

 指で示しながら、ヴォルトに高度を下げさせると、ばしゃりと派手な音が聞こえた。音の方へ目を向けると泥岩河馬べへモトの巨体が水を掻き分けて走っていくのが見える。


「ヴォルト、ここだ!」


「ガ!」


 泥岩河馬べへモトが逃げていった近くにあった木に近付いて貰ったところで、俺は腰にぶら下げた剣で枝を思い切り殴って揺らす。それが面白かったのか、ヴォルトは「ガ」と短く鳴きながら、木の幹を鋭い爪がついた四本の脚で蹴りつけた。ちょうどいい場所に鋭い爪痕が深々と刻まれる。


「上へもう一度いこう!」


 俺の指示に従ったヴォルトが、再び舞い上がり上空を飛ぶ。

 泥岩河馬ベヘモトは、上から差す影に怯えているようで、どんどん村から離れていく。

 あいつの天敵である雨乞い龍パルジーニヤに変装する作戦は、想像している以上にうまくいっているみたいだ。


 もう少しで崖だだ。ここまで追い回せば、泥岩河馬べへモトも今とは別の場所にナワバリを移すだろう。

 追い込みすぎると、命の危機を感じた泥岩河馬ベヘモトがこっちに反撃を考えるかも知れない。深追いはやめたほうがいい。


「ヴォルト、もう」


 戻ろうと伝えようとした瞬間、空から降り注いでいた太陽の光が遮られた。湿った雨の匂い一緒に、微かに龍芹草アニスによく似た酸味を含んだ甘い香りも漂ってきた気がする。狩人ハンターか、大型のドラゴンか? 思わず上を見上げると、さっきまでは雲一つなかった空を真っ黒で分厚い雲が覆い尽くしていた。

 声を出す間もなく、水桶をひっくり返したような雨が降りはじめてくる。


「しまった」


 雨で水を吸った棒がいっきに重くなる。濡れた手から滑り落ちた棒が、泥岩河馬べへモトの頭に当たった。

 逃げていたはずの巨大な獣は、立ち止まってこちらへ視線を向ける。


 バレた。

 めいいっぱい口を開いた泥岩河馬ベヘモトの口が落とした棒を噛み砕く。雨音でヴォルトの鳴き声も聞こえない。

 大きく身をそらしたヴォルトを諫めようと、身を乗り出した俺は、足を滑らせた。そのままの勢いで、身体が空中に投げ出される。

 頬と背中を叩く雨粒が痛い。怒り狂った泥岩河馬べへモトの大きな口が、目の前に迫ってくる。


 空が光る。ゴロゴロと獣の唸り声を大きくしたような音が響く。


「ヴォルト、逃げろ!」


 俺を助けようと追いかけてくるヴォルトが見えた。ダメだ。幼体こどものお前がこのまま近付いてきても、俺ごとかみ砕かれちまう。

 喉が張り裂けるんじゃないかってくらい大きな声を出した。その直後にガチンっと嫌な音がして、肘が燃えるように熱くなる。

 身体を振り回されて、身体が放り投げられた。

 たぶん、俺はこのまま水面に叩き付けられても、もう一度噛まれてもどちらにしても死ぬ。ぼんやりとかすむ視界と意識の中、死を覚悟していると目の前が真っ白に光る。

 太陽が落ちたみたいな強烈な光に包まれて、俺はそのまま意識を手放した。

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