5:大烏《ニフタ》

 突然、唸り声のような音が上空から聞こえてきて、太陽で乾かした干し草みたいな匂いを風が運んできた。それと同時に大きな影が、再び泥岩河馬べへモトの上に差しかかる。

 しかし、さっき雨乞い龍パルジーニヤが上空を横切った時のように泥岩河馬べへモトは水中に逃げなかった。

 それどころか、雄牛くらいなら丸ごと飲み込めそうなくらい大きな口を開きながら、短い首を上に向ける。


 新月の夜をそのまま塗りたくったような色の両翼が大きく広げられている。艶のある太くて鋭いくちばしと、鱗に覆われた黒い四本脚……。


大烏ニフタ……」


 思わず声に出して、その名を呼んでしまう。見つけると自分では言っていたものの、それは狩人ハンターになって、いくつも経験を積んだ末に目にするものだと思っていた。それが、まさかこんなところで見

られるなんて……。

 じいちゃんが話していた空の王に仕える大きな烏。その献身により、裁きの雷を譲られた大いなる獣。

 流石に、神話と同じように自由自在に雷を放てるとは思っていない。でも、体は子牛くらいの大きさがあり、大きく立派な嘴や、鱗に覆われた四脚の先端で輝いている鋭い鉤爪は体格が同じ位のドラゴンとなら互角

に渡り合えそうに見える。


 泥岩河馬べへモトのすぐ頭上にまで近付いて来た大烏ニフタは、獣の様に唸りながら羽根を大きくばたつかせる。

 だが、水中にいる泥岩河馬べへモトは、煩わしそうに瞬きをするだけで、めいいっぱい口を開いたまま一歩も退こうとしない。


「今がチャンス……か?」


 牽制し合う二匹の獣に見とれている場合ではないと、我に返った俺は背負っていた弓をつがいて木の上から狙いを定めた。

 キリキリと弦が小さな音を立てる。

 大烏ニフタの動きに合わせて、泥岩河馬ベヘモトが口を開いたまま頭を動かす。

 ちょうど大きな口がこちらを向き、大烏ニフタが離れた瞬間を狙って矢を持つ手を離した。

 風を切って真っ直ぐに飛んだ矢は、泥岩河馬べへモトの方へ向かって行く。


「ガゥ」


 獣の唸り声のような一鳴きと共に、重いものが水に叩き付けられたような音が響く。

 俺が放った矢は、再び泥岩河馬ベヘモトに近付いて来た大烏ニフタの右翼に当たってしまったらしい。

 見た目よりも硬い羽根によって俺の矢は弾かれたが、驚いたからか、空中で羽ばたくのを一度やめた大烏ニフタは、水面に落ちた。

 水面を羽根で叩いて水しぶきを派手にあげながら、四肢を動かしながらもがいている無力な烏に、泥岩河馬べへモトが、視線を向ける。

 さっきまでは、頭を鋭い爪で引っかかれるだけに甘んじていたそいつが、大きく口を開いたまま大烏ニフタへと近付いていく。

 今度こそ撃てるか? ともう一度狙いを定めるが、俺と泥岩河馬ベヘモトの間にいる大烏ニフタの翼が邪魔でうまく撃てそうもない。


「ガァガゥ!」


 獣の唸り声のような大烏ニフタの鳴き声がけたたましく響く。

 うまくいけば、こいつが忌々しい泥岩河馬べへモトを追い出してくれたかもしれないのに……。焦って弓なんて打つんじゃ無かった。


「クソ」


 後悔しても仕方ない。考えろ。

 必死で考えを巡らせる。泥岩河馬ベヘモトは、さっき大烏ニフタに退きもしなかったが積極的に攻撃をしたわけじゃ無い。もしかして、うまくこいつを使えば泥岩河馬ベヘモトを追い出せるかも

しれない。

 近付いてこようとする泥岩河馬ベヘモトに向かって、大烏ニフタは嘴と羽根で威嚇をしながらなんとか時間を稼いでいる。


「あいつに賭けるしかないか」


 手が震える。でも、せっかく見つけた大烏ニフタが俺のせいで死ぬ姿なんて見たくなかったし、なんだか、あいつなら泥岩河馬ベヘモトをどうにかしてくれる気がした。

 だから、歯を食いしばりながら、俺は水棲馬ケルピの毛皮を脱ぎ捨てて、木から下りる。

 それから、水辺に生えている扇みたいな木の葉っぱを引きちぎり、水面をバシャバシャと叩いた。


「こっちだこっち! うすのろのデカブツが」


 大きく声を上げながら、水面を叩くと泥岩河馬べへモト大烏ニフタから目を逸らしてこっちに頭を向ける。


「そうだ! 俺を見ろ」


 匂いが漏れないように油を塗った皮で包んでいた生肉を取りだして、挑発してから俺はわざと水音を立てて浅瀬を走る。

 振り返ってみると、まだ警戒しているのか、ゆっくりとこちらへ近付いてくる泥岩河馬ベヘモトの後で、黒い影が空に飛び上がったのが見えた。

 これなら安心だ。俺も、大きな木の前で立ち止まって、生肉を腰にぶら下げて弓を構える。

 射線上から大烏ニフタが外れたことがわかった俺は、手早く弓を引いて、そのまま矢を射た。

 か細い風切り音を放ちながら、矢は泥岩河馬べへモトの目に当たる。

 硬いまぶたに阻まれたが、奴の不興を買うには十分だったらしい。

 泥岩河馬べへモトがどすんと前足を水面に叩き付けて、頭を低くする。

 体当たりをしてくるつもりだ。俺の上に大きな影が差したのが、気にしている暇はない。

 胸の音が太鼓のようにうるさい。息が浅くなって苦しくなる。

 豪快に水しぶきを上げながらこちらへ走ってくる泥岩河馬べへモトから逃げるように、俺はいそいで近くにある太い木に登った。

 そして、急いで隣の木へ飛び移った。

 高いところへは泥岩河馬べへモトはこられないはずだ。森の奥にある大樹まで、木を伝っていけば逃げ切れるだろう。

 背後からバキバキと木が折れる音を聞きながら、俺は必死でツタや枝を掴んで木の上を移動する。


「げ」


 焦っているとろくな事がない。

 妙なざらっとした手触りがしたと気が付いたときには、もう手遅れだった。

 俺が掴んだのは、腕くらいの太さがある翡翠蛇だった。木々に紛れて獲物を狙う翡翠蛇は、毒がないものの気性は荒く、鹿や山羊なんかを簡単に絞め殺すくらい力が強い。

 シャーっと言う威嚇音を放たれて急いで手を離したはいいが、慌てていた俺の足はズルリと音を立て、踏みしめていた枝から滑り落ちる。

 落ちるわけには行かないと必死で別の枝を手に取ったが、いい位置に枝なんてものがなく、情けないことに宙ぶらりんの状態になってしまった。


 目の前には威嚇音を出しながらこちらに鎌首をもたげている翡翠蛇、そしてバキバキという木々を折る音と共に背後から迫ってきている泥岩河馬べへモト

 茂みから姿を現した泥岩河馬べへモトは、宙ぶらりんになっている俺に気が付くと大きな口を開いて、俺の真下にやってきた。

 ガチンと音がして、その震動で足先が震える。それが、泥岩河馬べへモトが口を開閉させる音だとわかって、その威力に背筋が冷えていく。


「……クソ。両手が塞がってたら獣除けも使えない」


 翡翠蛇の体を掴んだ時点で慌てずに、ポケットに入れていた獣除けの薬を使えばよかった。それなら、怒り狂った泥岩河馬ベヘモトは退けられなくても、少なくとも蛇は退散したはずだ。

 ぶら下がったままでどのくらい経ったのかわからない。徐々に両方の腕がしびれてくる。いくら威嚇してもどこへもいかない俺を明確な敵と見なしたのか、さっきまで一定の距離を保っていた翡翠蛇は身体をこちら

へ伸ばしてくる。


 翡翠蛇に絞め殺されるか、泥岩河馬べへモトに喰われるか……どっちにしても終わりかよ。

 俺は目をぎゅっと閉じて、普段信じてもいない森の神様に「助けてくれ」と祈った。


「ガァーガァー」


 強い風と小枝を折る音、そして獣の唸り声みたいな鳴き声と共に俺の背中はむんずと捕まれた。

 叫ぶ暇もないまま、俺の体は持ち上げられていく。運良く服を掴まれているのか、背中に爪が食い込んで痛いなんてことは無い。

 しまった! 大烏ニフタがまだ彷徨うろついていたのか。

 あっというまに俺が掴んでいた木が遠ざかっていく。村とは正反対に飛んでいく大烏ニフタに、無駄だとはわかっていても「食べないでくれ」とか「そっちじゃない」と言ったが、止まってくれるはずもない。

 そのまま、遠くなっていく村を見つめることしか出来なかった。

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