3:村と獣

 人間俺たちは弱い。

 いつでも森の獣に狙われて、食うか食われるかの日々を送っている。

 油断をしてはいけない。勝利を簡単に確信してはいけない。

 手負いの獣は一番恐ろしいのだから。


 近くの河に泥岩河馬べへモトが出たのは少し前のことだった。

 河に作ったいけすが壊されたのを見て、魚を捕りに行った大人たちが引き返してきたのだ。

 村のみんなは、未だに死んだじいちゃんの言いつけを守っている。

 異変があったら、村へ戻ってすぐニコか村長に伝えろと。


「おそらくだが、いけすをあらしたのは泥岩河馬べへモトだ」


 村に帰ってきた大人たちの話を聞いた村長が、絵巻を眺めて、唸りながらそう言った。

 あの絵巻は、じいちゃんが村のために共用文字で描いた危険な生き物について記したものだ。

 村のみんなはほとんど文字が読めないから、村長に預けたんだそうだ。俺はじいちゃんに共用文字と狩人ハンターたちがよく使っている文字を教わったから必要はないけれど……。


「クソ…… 泥岩河馬べへモトなんてここ二十年は出ていなかったはずだろ。ダダンさんがしっかりねぐらまで潰したってのに」


「ダダンの旦那がまだ生きていてくれれば……」


 思わず声を上げると、大人達の視線が一斉に俺に集まった。それから、母さんが怒ったように目をつり上げてこっちへ目を向ける。


「じいちゃんはもういないけど、俺がいるじゃねえかよ」


「こら! ニコ! 大人の話に首をつっこむんじゃないよ」


 俺が見に行くって言おうとしたけど、母さんにどやされてそれどころじゃなかった。それでも、まあ、俺は隠れて森へ行くんだけどさ。

 伸ばしてきた母さんの手をかいくぐって、俺は広場を飛び出した。それから、ヒトの匂いを消すために泥と草をすり潰した汁を塗りたくった毛皮をまとって木々の間に身を隠す。

 木の上に登って、ところどころに切り傷を付けながら河へ向かった。


「……っ」


 河には見慣れない大きな岩がある。背中に小さな鳥たちを乗せている大岩は何かに気が付いたようにゆっくりと体を揺する。

 息を止めて、大岩を凝視する。徐々にこちらを向いた大岩に似たそれは、頭の上部についた左右の筒状の耳を動かしながら、側面についている小さくて鋭い二つの眼をぎょろぎょろさせている。

 何本かはみ出している牙は、俺の胴体よりも太いんじゃないか? アレで噛まれたらただではすまなそうだ。

 はじめて泥岩河馬べへモトを見て、恐怖で膝が震えているのがわかる。今日は撤退だ。

 冷静になれ。獣は恐ろしい。でも、恐ろしいだけじゃない。よく相手を視て、弱点を探るんだ。じいちゃんの言葉を思い出しながら、なるべく音を立てないようにその場から離れて、俺はすぐに村へ戻る。

 それから、母さんたちの目を盗んで村の様子も窺うことにした。

 隠れて聞いた話によると、村のみんなは、あまり多くない蓄えを共同で出し合って近くの都市に狩人ハンターを要請したらしい。

 数日も待てば、恐ろしい獣は退治されるだろうと、大人達が話し合っていた。

 でも、俺は実際に来る狩人ハンターを見るまでは安心できないと思っている。

 何故なら、じいちゃんが「狩人ハンターといってもいろんなやつがいる。獣を畏れない狩人ハンターは良くない狩人ハンターだ。ちゃんと見極めないと足を引っ張られて死ぬこともあるぞ」とよく言っていたからだ。

 安心し始めた大人たちをよそに、俺は母さんたちの目を盗みながら、森へ通って泥岩河馬べへモトの様子を見て記憶する。もし、狩人ハンターが来て、獣の様子を聞いてきたらちゃんと教えてやろうと思ったんだ。

 数日して小型の飛竜が牽く船できたのは、筋骨隆々のふてぶてしい態度の狩人ハンターだった。


「……小僧、なんだ?」


 到着した狩人ハンターを歓迎するために家から出てきた村人を押しのけて、一番最初に駆けつけてきた俺をじろりと見下ろした男は、ふんと鼻を鳴らして目を背けた。それから、村の大人たちの言葉に軽く頷きながら、一番奥にある屋敷に足を進めていく。

 陽の光をびかびかと反射するよく磨かれた鉄の鎧、撥水性の低そうな腰布……武器は、腰にぶら下げた太刀が一本。

 泥岩河馬べへモトの硬い皮膚には刃物が通じないとわかってないのか? それとも別に秘策でもあるんだろうか……。俺もじいちゃん以外の狩人ハンターを知っているわけじゃない。

 だから、装備だけを見て、判断するのはよくないんだけど。


「期待していろ。大型のドラゴンならともかく、うすのろの泥岩河馬べへモトなんぞオレの敵では無い」


 村長の館から出てくるなり、胸を張って大きな声で村の大人たちに告げた狩人は、そのまま森へと向かって進んでいく。

 この時点で俺は、こいつはダメだなって思った。それなりの金を出してるってのに、あんなやつが来るなんて……。


狩人ハンターさん、もうすぐ日暮れだぜ? あんた、本当に今から狩りに行くのか?」


「こんな辺境の地にいつまでも銀勲章持ちの狩人ハンターである俺様がいるわけにはいかない。さっさと雑魚を倒してやるから、小僧は家で家族の手伝いでもしているといい」


 ニヤリと口の端を持ち上げた狩人ハンターは、ヒトの匂いをプンプンさせたまま、森へずんずんと足を進めていった。

 一応止めてやったのにな……と思いながら、俺は走ってじいちゃんの残した小屋へ向かう。

 まったく、日暮れがせまってくる時間に獣たちあいつらのナワバリに踏み入れるだなんて……。

 小屋にしまっておいた水棲馬ケルビの皮を被ってヒトの匂いを誤魔化す。

 木から木へ飛び移りながら進んでいくと、すぐに狩人ハンターへ追いついた。これだけ物音を出しているのに、あいつは俺にすら気付く様子がない。

 それに、腰の太刀を抜いてバサバサと大きな音を出して小さな木々をなぎ倒しながら森を進んでいる。

 こんなんじゃ、ここに獲物がいるぞって恐ろしい獣たちに居場所を知らせているようなものなのに。

 助けてやろうにも、あいつは俺のことも、獣たちのことも侮っている。きっと俺の言葉に耳なんて貸さないだろう。それに、母さんにバレたらまためんどくさい。

 いつもよりしっかりと獣除けの作業をして、村に戻っておこう。

 溜息を吐きながら、俺はじいちゃんの残してくれた雨乞い龍パルジーニヤの爪で作ったナイフで木の上部に三筋切り傷を付ける。

 それから、狼と六眼大山猫の糞を混ぜた特性の獣除けをばら撒いて村へ帰った。

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