第五幕『たまき』
池に面した石造りのベンチで、なんとなく二人、黙って座っていると、不意にたまきが口を開いた。
「景色、綺麗だね。」
ぽつり、と小さな声だった。
遠くからかすかに、笛の音のようなものが聞こえる。池に突き出した形の立派な東屋が見えた。その屋根からは凝った作りの照明が吊り下げられている。確かに、桜並木とともに見るその景色は絶妙に美しい。
「うん、綺麗。」
私がそう答えると、「そうだよね……」と静かな声が返ってきた。
「……?」
その横顔が少しばかり悲しそうなものに見えて、私は思わず彼女に声をかけた。
「どうした?」
私の問いに、たまきは答えない。
その代わり、水笛を持って口につけ、「ピロピロ」と鳴らした。ひとしきり吹いて満足したのか、しばらくしてそれを手から放す。
「……たまきね、学校で『ムヒョウジョウ』って言われてるの。」
「ムヒョウジョウ」=「無表情」だと気づくまでに、一瞬の間があった。
唐突な話だったが、私は黙って聞くことにする。
たまきが続けた。
「たまきバカだし、空気読めないからさ。変なタイミングで笑っちゃって嫌われたらどうしようって考えると怖くて。いつもどんな顔でいたらいいのかわかんないんだよね。」
言葉の語尾が少し震えているのを誤魔化すように、彼女はまた「ピロピロ」と水笛を吹いた。
「だからね、たまきが、仲が良いって思ってる子の前でだけは、ちゃんと笑おうって思ってた。そうしたら……」
たまきはそこで言葉を詰まらせる。
彼女が話を再開するまでにかかったわずかな時間に、たくさんの人がこの場所を通りすぎていった。
たまきが息を吸う。
「そのうち、普段仲良さそうにしてる子同士の間でも、本人に隠れて悪口言う子が出てきてね。」
その子達は、たまきと関係ないよ、言い添える彼女。
「でも、やっぱり怖くて。いつも怖くて。たまき、全然上手くやっていけそうになくて……」
そう言って、たまきは唇を噛んだ。
「だから、確かめたくてここに来たんだ。」
彼女がベンチから立ち上がった。そのまま歩いて、池のまわりをぐるりと囲った手すりの前に移動する。
「目下池から離れて、パパとママに黙ってここまで来たの、半分わざとだった。目的は果たせなかったし、本当に迷子になっちゃったしで、結果は散々だったけど……ごめんね。」
たまきが誰に対してなのかわからない謝罪をした。
彼女は手すりに腰かけると、体を軽く反らせる。その体勢に危うさを覚え、私が立ち上がりかけたが、それに気がついたのか、たまきはすぐにそれをやめた。
手すりから地面にピョンと飛び降りる。
「あーあ!春休みが終わったら、また学校行かなきゃ。やだなー。」
彼女がその場でくるくると意味もなく回転した。着ているワンピースの裾が広がったり、元に戻ったりを繰り返す。すると今度は、私の元へ駆け寄ってきた。そして、不器用な笑みを浮かべて私に尋ねる。
「ねぇ、お姉ちゃんは今幸せ?楽しいって思えること、いっぱいある?ちゃんと、無理しなくても笑えてる?」
薄ぼんやりとした光の中で、私は目を見開いた。迷うことなく、首を縦に振る。
「うん。幸せ。」
すると、彼女は「そっか!」と心底嬉しそうな顔で笑った。
「ところで、お姉ちゃんってさ……」
彼女が何かが言いかけた時、後ろから「たまき!」と、彼女を呼ぶ声がした。
そちらを見ると、一人の女性がこちらへ駆けてくるところだった。
「ママ!」
たまきが一目散にそちらへ走っていく。彼女の母親で間違いないようだ。
私はベンチから腰を上げる。
「さてと、お役御免かな。」
最後に、母親に抱きついて泣く彼女に向かって、私は小さく手を振った。
「じゃあね、たまき。」
またね。
そう呟いた瞬間、気が遠くなるのを感じた。
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