迷鬼 ~まよひおに~
譚ノ一
絶えて久しくなりぬれど
この魂果てる迄、彷徨い往く
****
己とは一体、何なのか?
誰に問いかけようと答えは戻らない
ただ空っぽだということは分かる
虚ろに嗤うことも忘れて彷徨う
****
「キミは何処まで往くんだい?」
声をかけられて振り返った。
夜の帳がすっかり下りた、
暗闇に幾重も並ぶ鳥居の参道でのことだった。
ぽつり、ぽつりと数少ない灯篭に灯りが灯っていることだけが有難い。
女である。
肌の色は白く、顔立ちは整っている。着物の色合わせは変わっていた。半襟と帯は、鮮やかな紅色。長い髪と纏う着物は艶やかな闇色。随所に散らされた蝶と桜の模様だけが浮いて見える。
まるで、そう。
死を纏っているように感じた。
ただ奇妙なのは月もない闇で、心許ない灯篭の灯りしかないというのに女の姿が妙にはっきりと見えるのが不思議だった。
女は飄々とした雰囲気で、口調も親しい友人と話をするかのように軽い。
再度、女は問う。
何処へ往きたいのかと。
往き先……何処から何処へと。そう、自分は多分、この大社を一周し戻りたいだけだったと思うのだが、問われて初めて、自分の考えが不明確で形がないことに気が付いた。
彼女の質問に答えられず黙り込んでいるとさらに言葉を紡いだのは女だった。
「ボクは紫月。キミの名前は?」
静かな夜に溶けるような、いつまでも聞いていたくなってしまう声色だった。
高すぎず低すぎない耳あたりが良い声。
「ねぇ、名前、教えてよ」
もう一度、紫月と名乗った女に問いかけられて我に返る。
ここは山道であり参道だ。
存在の有無は定かではないが妖怪ではないだろうが、神様とは思えない。
女が一人でこの暗闇にいることの方が恐ろしくて何も答えず先を往こうと名を名乗ることなく足を踏み出そう、としてやめた。
名前。
はて、名前……自分の名前は一体何だったのか。
自分自身を形作る上で、他と自分を区別する上で最も重要なはずの自分の名前が何故か思い出すことができない。
何と答えたものか。
今度こそ完全に振り返り、紫月と相対した。
彼女を伺い見ると、彼女は口の端に笑みを浮かべている。
自分が名を失っているということは初めから知っていたと言わんばかりの態度で。そして、その綺麗な笑みに見入ってしまった。
「な、まえ……」
名前、名前、名前……ダメだ、何も覚えていない。
覚えていないのに何故、自分はこんな所にいるのか。参道を歩いているのか。何も、分からなくて。
「じゃあボクが勝手にこう呼ぼう。
「伽藍……?」
キミの仮の名前さ、と何でもないように紫月は言った。
「自分の名も、記憶も、己を形作る上で重要なもの全てを今失っているキミには、おそらく丁度良い名前だと思うんだけど?」
どう思うかと聞かれたが、どうでも良いので頷くしかなかった。
彼女は言葉を続ける。
「もしキミさえ良ければ、しばしの間ボクが旅の道連れとなろう」
「旅……? 別に旅というほどのことは……」
それに、一人でいい。一人が良い。
この先も彷徨うのだろうから。
いや待て、一体そもそも何故、自分は彷徨うのだろうことが分かっているのか。
「何も覚えていないというのなら、少しずつ明確にしていこうじゃないか。キミが誰なのか。どうだい? 人生とは旅だと表現する“人”もいるのだから一時、旅の道連れがいても楽しいだろう」
返事が出来ない。
良い、とも嫌、とも頷くことすら出来なくて、けれども紫月の提案は魅力的にも思えた。
自分を思い出したい。
名前を、姿を、記憶を。
どうせ往く道は遠く果てないのだ。
暗い道を鬱々としつつ虚ろに、目的もなく彷徨い歩くよりは良いだろう。
ようやくそこで頷いた。
その答えに満足したのか紫月はにっこりと微笑みを浮かべて一歩、踏み出したかと思えば踵を返して顔だけ振り返った。
「今宵はもう遅い。道往きの続きは、また―――」
カラン、と涼やかな桐下駄の音を一つ残し、紫月は闇に溶けるように、文字通り姿を消した。
後にはひらり、ひらりと踊る黒い蝶が灯りの燈る灯篭を一周して闇に消えて行った。
その蝶を目で追いかけて伽藍はただその場に立ち尽くした。
彼女は―――紫月は一体、何者なのか。
自分の何を知っているのだろうか。
道往きを始めてからどのくらい時が経っているのかも覚えていないが、恐らく初めて、不安が漣のように広がった。
「この先に、何がある……?」
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