第45話・聖なる獣

「ひぃっ、ヘ、ヘルバ……!」


 自分よりも小柄な少女から放たれる怒気に、エリックは腰を抜かしそうになった。しかし、これは最大のチャンスだと思ったのか、どうにか口角を上げて両手を広げた。


「や、やあ、ヘルバ。君が来るのを待っていたんだよ」

「治すことしか能のないって言ってただろ。今更媚びるな、気持ち悪い」

「それは言葉のあやってやつさ……」

「そんなことより、アーヴィンさんとイリスさん返せや」


 淡々とした口調で喋るヘルバに、エリックはアーヴィンの頭を鷲掴みにした。


「いいかい、ヘルバ。僕は君を世界中の誰よりも必要としている。誰よりも愛している。なのに、君は僕の下に戻ろうとしない。僕もこんな手段に頼るしかないんだよ。彼らがこうしてこんな目に遭っているのは君のせいなんだ」

「ほーう?」


 ヘルバはエリックの傲慢な物言いに顔色一つ変えず、感情の籠っていない眼差しで彼を見据えていた。

 もっと狼狽すると思っていたのに、想像と違う。エリックは軽く苛立ちながらも、ヘルバに交渉を持ちかける。


「だから……ね? 二人のことが大切なら僕の下においで、ヘルバ」


 アーヴィンとイリスにはまだまだ利用価値がある。ゴーニックなどには絶対に帰さない。

 今、この場を乗り切れば王太子に戻れる。王位継承権を取り戻せる。国王になれる。エリックが何度も自分にそう言い聞かせている時だった。


「ひぎゃ!?」


 家臣の一人がヘルバの影を見て悲鳴を上げた。

 エリックもその視線を目で追いかけ、恐怖の正体に気付いて戦慄した。


 少女の影は人ではなく、獣の形を成していたのだ。


「まさか……まさか私を連れ戻すためにここまでするとは想像していなかった。だから、二人を攫ったのは金目当ての人攫いの集団だと思って、虱潰しに探してみることにしたんだ」


 屋内であるにも拘わらず、ヘルバのマロンブラウンの髪が大きく揺れ始める。目は赤い輝きを放ち、白い爪が急速に伸びてゆく。


「……ここを教えてくれたのは、ハイドラさんだった。私の居場所を予知で見て、会いに来て教えてくれた。お前がアーヴィンさんとイリスさんを連れて、ここに来る未来が見えたって」


 声も次第に低くなっていく。体が赤い光に包まれたかと思うと、その光は肥大化して装飾がなされた壁や天井を吹き飛ばした。


「な、何だ、それは!? 魔法か……!?」


 エリックは絨毯の床に尻餅をつきながら、大きくなり続ける光を見詰める。光の中に潜むモノから目を離すことが出来ない。

 元王太子に雇われた破落戸は、アーヴィンとイリスの縄と猿轡を解いた。良心からの行動ではない。今すぐ二人を解放しなければ、まずいと本能的に感じたのだ。


 光が消え、ヘルバが再びエリックたちの前に現れる。

 だが、そこにいたのは癒しの聖女などではなかった。


「ヘルバ……さん?」


 イリスが不思議そうに彼女の名を呼ぶ。

 鮮やかな炎色の毛並み、天井に届く程の巨体。

 禍々しい光を宿した深紅の双眸。


 一匹の狼がエリックたちを睨み付け、唸り声を上げていた。


「う、うわぁぁぁぁぁっ!!」


 床を這って逃げようとするエリックを破落戸たちが押さえ付ける。


「おまっ、ふざけんな離せよぉっ!!」

「一人で勝手に逃げんな! あの狼みてーなのは何なんだよ!?」

「知らないのかよクソ共が! あれは聖獣だ、聖獣!」

「聖獣!?」

「天上界に棲んでいる獣だ! 神から血を分け与えられた半神半獣みたいな連中なんだよぉ……!」


 エリックは目に涙を滲ませて説明をした。最期の時を待って祈りを捧げている母を一瞥し、眼前の聖獣を見上げる。

 疑うべきだったのだ。聖女というには強大過ぎる魔法を有するヘルバが何者なのかと。

 もしかしたら、他の存在ではないのかと。


 ヘルバはあまりにも無知だった。それも、野菜の種類すらも知らない程に。

 当然である。彼女は本来、この世界の住人ではないのだから。


 善意で人を、大地を、水を、空を癒した聖獣。

 エリックは、そんな彼女を本気で怒らせたのである。

 フィオーナ王国の滅亡は避けられない。


「あ、ああ……」


 いつか自分が座るはずだった玉座は、巨大な前脚に踏み潰された。

 この国の全てを道連れにして、ヘルバに殺される。エリックが母と同じように祈りを捧げようとしていると、アーヴィンがふらつきながら立ち上がった。

 人の身では到底敵わない存在を前にしているというのに、恐れを抱いていない様子だった。

 むしろ、呆れているようだった。


「まったく、君は何を──」


 アーヴィンの声が届いていないのか、聞かない振りをしたのか、ヘルバは息を大きく吸うと耳をつんざくような咆哮を発した。

 その直後、エリックの壮絶な悲鳴が崩壊しかけている玉座の間に谺(こだま)した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る