第44話・意思疎通不可能
「エリック……何てことを……」
ようやくシスティーヌの口から発せられたのは、絶望から来る言葉だった。他国の貴族、それもよりにもよってレムリア家の人間を誘拐し、彼らを利用して聖女を誘き寄せようとしている。
薬師ギルドどころか、ゴーニック王国そのものの怒りを買う行為だ。フィオーナ王国の民たちを救ってくれた恩を仇で返したのである。
いや、ゴーニックだけではない。多くの国がエリックの、いやフィオーナ王国の行いを非難することだろう。
「どうなさいました? 母上」
「ヘルバが来たとしてどうするのです。再び彼女を捕らえて今度こそ処刑するとでも?」
「はぁ? 彼女は僕の妻となる娘ですよ? 癒しの聖女として強大な力を持ち、世界中の誰よりも美しい。王太子妃に相応しいヘルバを処刑するなど有り得ませんね!」
システィーヌは内心頭を抱えていた。今の言い分でこの馬鹿息子が何を目論んでいるのか分かってしまったからだ。
今でもフィオーナ王国では、癒しの聖女を必要としている者たちが大勢いる。真実など知らずにアネッサの来訪を待ち望んでいるのだ。
だがしかし、そのアネッサは罪人となり、二度と地下から出ることは叶わない。仮に魔法を使うことを条件に牢獄から出したとしても、彼女にヘルバの代わりなど務まるはずがない。必然的にヘルバを求める形となる。
真の聖女を連れ戻し、国に縛り付けることが出来たのならその功績が讃えられ、きっと王太子に戻れる。エリックはそう信じて疑わないのだ。
「何を戯言を……! このことがゴーニックに知れれば、薬師ギルドからの輸入が途絶える可能性もあるのですよ!?」
「そんなもの必要ありませんよ。ヘルバが皆を癒してくれますからね! 肉を与えてさえいれば彼女は何でもしてくれる。それに……もし拒絶するようなことがあれば、この二人に危害を加えると脅せばいいだけの話ではありませんか」
男たちがアーヴィンとイリスに剣を向ける。家臣が「おやめください! 正気でございますか!?」と諌めると、エリックは「うるさい!」と唾を撒き散らしながら怒鳴り声を上げた。
「僕はこの国にとって最も必要なものを、必死に取り返そうとしているんだ! そんな僕の苦労をどうして理解しようとしない!? 母上、あなたならご理解してくださいますよね……?」
アーヴィンの背中を蹴りつけながらエリックが訊ねる。何度も蹴られてもアーヴィンは呻き声一つ漏らさず、代わりにイリスが必死に声にならない叫びを上げる。
善悪も区別がつかないまま自らに陶酔し切った笑みを湛える息子に、システィーヌはゆっくりと口を開く。
「……王太子には戻れないわ」
「……今、何と?」
「エリック、あなたはただのエリックとして死ぬのよ」
黄金色に輝く夢想を粉々にするような言葉だった。エリックは顔を赤く染めて母親を睨んだ。
「いいから僕を王太子に戻せよクソババア! あんな田舎で惨めに暮らすのはもううんざりなんだよ!!」
「もう無理よ。この国はおしまいだわ……」
「終わりなわけないだろ! ヘルバがいれば全て元通りに……!」
「ハイドラの予知にあったのよ! そのヘルバ様(・)にフィオーナ王国が滅ぼされると!」
玉座の間にシスティーヌの苛立った声が響き渡る。エリックも、家臣も、エリックが連れて来た男たちも、この国の女王へと視線を注ぐ。
エリックは怒りを暫し忘れ、困惑が入り混じる笑みを見せた。
「確かにヘルバはやたらと怪力ですが、一つの国を滅ぼすだなんてそんなわけないじゃないですか。ハイドラも寝惚けていたんでしょう?」
「……残念ながら真実よ。あの御方ならこんなちっぽけな国なんてたやすく滅ぼせる」
「あの御方ぁ? 誰かを治すことしか能のないような女をどうしてそこまで恐れ……」
エリックはそこで言葉を止めて、自分の喉元を擦った。
鋭利な刃物を押し当てられるような感覚がしたのだ。だが、そこには何もない。
感覚は今も続いていた。呼吸が震える。汗が止まらない。
「ああ、こんなところにいたのか。やっと見付けたよ」
エリックはその無機質な声に身を震わせた。彼女(・・)の来訪をこの場にいる誰よりも望んでいたというのに、今すぐこの場から逃げ去りたいと考えてしまう。
この国を統べる王のみが腰を下ろすことを許される玉座。その傍らにマロンブラウンの髪の少女が佇んでいた。
少女はアーヴィンとイリスの姿を見て一瞬目元を緩ませたが、エリックに向けた視線には凄まじい怒気が込められていた。
「とっとと二人を返しやがれ、この野郎!!」
ヘルバは玉座を蹴り飛ばしながら怒号を発した。
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