第42話・事件

 兄は幼い頃から父の手伝いをしていたので、十三歳になる頃には薬の精製をマスターしていた。頭がよくて手先も器用なのである。熱い湯で薬草を煮込んだり、出来立ての薬液を瓶に入れたり型に流し込んだりしているのに、火傷をしたことは殆どない。

 イリスもいつか兄のような薬師になりたいと思う。




「……お兄様、何をなさろうとしたのですか?」

「野菜を茹でようとしただけだ」


 即答する兄の手に包帯を巻きながら、イリスは嘆息する。

 キッチンからシェフの悲鳴が聞こえて来たので慌てて駆け付けると、自分の手に熱湯をかけてしまったアーヴィンの姿があった。

 いくら鍋や熱湯の取り扱いが得意と言っても、それは薬の精製時だけだ。料理に関しては全くのド素人だったのである。

 指には切り傷がいくつも刻まれていた。野菜を切っている最中にザクザクやっていたようだ。

 アーヴィンを指南しつつ見守っていたシェフは、半泣きで胃痛を訴えていた。一番最初は野菜と一緒に指まで切り落とそうとしたらしい。


 こんな時、ヘルバがいたら「何してるんですか」と呆れながらも、すぐに魔法をかけてくれただろう。しかし彼女は、今レイアと共に薬草を採取しに森へ出かけている。

 その隙を狙い、アーヴィンはこうして慣れないことを始めたのである。


「けれど、まさかお兄様がお料理に目覚めるなんて……ヘルバ様も驚かれると思いますよ」

「あれには言うな。俺が作ったものを食べたいと言い出すかもしれない」

「いいではありませんか」


 アーヴィンがキッチンに足を踏み入れた理由なんて、イリスにはお見通しなのだ。素直になってしまえばいいのにと思っていると、兄が気まずそうに声を漏らした。


「……不味い物を食わせて軽蔑されるのは困る」

「ヘルバ様ならきっと大丈夫だと思いますけれど」

「確かにあれは何を食べても美味いと言う味覚をしていそうだが」

「もー! そういうことではありません!」


 ヘルバなら誰かが一生懸命作った料理というだけで、きっと喜んでくれるはずだ。あの聖女の優しさを誰よりも理解しているはずなのに、どうしてこんな時ばかり臆病になってしまうのか。

 ただ、どうせならヘルバには美味しい料理を食べて欲しい。


「お兄様、本を買いに行きましょう」

「本?」

「お料理の本です。それも子供向けの」

「何だイリス。お前も料理を始めるのか」

「はい、私もヘルバ様にお料理を……ってそれもありますけど、お兄様のためです!」


 指のみじん切りを実行しそうなアーヴィンには、そのくらいレベルを下げた料理本でちょうどいい。イリスがそう説明すると、アーヴィンは神妙な顔で頷いた。自分でもこのままではまずいと自覚していたらしい。


「お母様とヘルバ様がお戻りになる前に書店へ行きましょう」

「分かった。馬車の用意を頼もう」


 善は急げだ。まずはアーヴィンがまともに包丁を握れるようになるところからのスタートだが、生真面目な兄ならきっと根気強く練習を続けてくれるはず。


「頑張りましょうね、お兄様!」


 そう言うと、イリスはアーヴィンに頭を撫でられた。






「さあお昼ごはんが私を待って……ってあれ?」


 薬草摘みから戻って来たヘルバが異変を感じたのは、馬車の窓からレムリア家の屋敷が見え始めた時だった。

 正門の前に人だかりが出来ているのだ。その光景を目にして、薬草を眺めていたレイアも怪訝そうな顔をする。


「ランドルフかアーヴィンがまた何かやらかしたのかしら……?」

「またとは?」

「以前発火性の薬草を使った薬の調合を誤って、小火を起こしたことがあるのよ」

「一歩間違えれば大惨事じゃないですか」


 その時も近隣住民が心配して集まってきたようで、ランドルフとアーヴィンは顔を煤(すす)塗れにして謝っていたという。

 だが、そうではないのだとすぐに分かった。馬車から降りた途端、エレナとパトリックが顔面蒼白で駆け寄って来たのだ。


「レイアさん、ヘルバ様……!」

「ああ、よかった。お二人はご無事でしたか……」


 エレナはその場で泣き崩れ、パトリックも安堵の溜め息を漏らす。他の使用人たちも馬車へと集まって来た。

 彼らを代表して、パトリックが絞り出すような声で告げる。


「アーヴィン様とイリス様が誘拐されたようなのです」

「誘拐!?」


 思わず叫んだヘルバの横で、レイアが両手で口を覆った。ふらつく彼女の体をメイドが支える。


「ゆ、誘拐って家に輩が押しかけて来たってことですか?」

「お二人は使用人と共に、馬車で王都一の書店に向かわれていたとのことです。その途中で突如数人の男が馬車を乗っ取り、使用人を馬車から突き落としてどこかへ走り去ったようでして……」

「……どうしてそんなことを」

「分かりません。通常、貴族の誘拐というのは身代金目的の場合が多いのですが、現時点では犯人からの要求もないのです」

「ランドルフは? あの人は無事なの?」


 声を震わせながらレイアが問いかける。


「ランドルフ様は薬師ギルドで会議中だったため、ご無事でした。ですが、王都は大騒ぎとなっておりまして、ゴーニック城の使者も間もなくお見えになるとのことです」

「そう……分かったわ」

「ひとまず、レイア様とヘルバ様はお早く屋敷の中に……ヘルバ様?」


 パトリックは瞠目した。たった今まで、側にいたはずの癒しの聖女が姿を消していたのだ。



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