第41話・良心の決壊
フィオーナ王国の辺境。かつてこの地では農作物がさほど育たず、有害な毒素が空気中に漂っていた。そのため健康被害も多く、それでも移住するための金も余裕もなかった住民たちは苦しい生活を余儀なくされていた。
しかし癒しの聖女の来訪後、彼らの環境は変わった。
豊かになった大地で作物が育てられるようになり、澄んだ川で採れた魚も安全に食べられるようになった。
家に引きこもってばかりだった子供たちは外で遊び回るようになり、庭に設置した物干し竿に洗濯物を干せるようになった。
「聖女アネッサァ? 誰だいそれは。この村を救ってくださったのは聖女ヘルバ様だよ」
ある主婦は訝しげにそう語る。
「ヘルバさまはおかねはいらないから、おにくをくださいっていってたよ! みんなをたすけてくれたよ! なのに……なんでしょけいされちゃったの?」
ある子供は目を潤ませ、村の恩人である聖女の死を悲しんだ。
「エリック王太子は女好きって噂があったろ? だからヘルバ様を捨ててアネッサとかいう女を選びやがったんだ!」
ある大工は顔を歪め、王太子(・・・)への怒りを露にした。
偽聖女ヘルバの処刑は彼女に救われた者たちを驚愕、激怒させた。その矛先は当然、エリックとアネッサに向けられる。幼い子供まで未来の国王であるはずのエリックを悪人呼ばわりする始末だった。
そのような村に近頃、一人の男爵貴族が住むようになった。どうやら若い男らしいが、その姿は誰も見たことがない。
村人の間では都会から追われて来た貴族では、と噂が流れていた。
男は常に小さな屋敷に引きこもっている。たまにどこかへ外出する時も顔を黒い布で隠し、馬車で移動するのみだ。
更に酒に溺れているのか、夜になるとたまに男が喚く声が屋敷から聞こえてくる。
村人は気味悪がり、子供を絶対に屋敷に近付けようとしなかった。
しかし、それは屋敷の主にとって都合がよかった。
何故なら村人が彼の正体を知れば、彼らの怒りや憎しみを一身に受けることになるからだ。
「くそ……っ! いつになったら僕はこんな田舎から出られるんだ!?」
エリックは紅茶を飲みながら憤慨していた。紅茶は自分が淹れたものだが、メイドが用意するものに比べて香りが劣り、何よりも温(ぬる)すぎる。
屋敷の家事を担当していたメイドたちは、三日前に全員辞めてしまった。廃嫡されたというのに、現実を受け入れられず「僕は王太子だぞ!」と喚き、我儘放題だったエリックに嫌気が差したのだ。
一番の原因は、夜伽を強要しようとしたことだった。異性と接する機会を失ったエリックは、欲求の捌け口としてメイドを使おうとしたのである。
これには監視役も担っている古くからの従者たちが必死に止めた。
そんな彼らにエリックは「ヘルバ程の美しさがなくても、僕の相手になることを許してやるんだ。光栄に思えよ!」と憮然とした態度で言い放った。
その翌日、メイドは皆屋敷から出て行った。エリックはどうして止めなかったのかと従者に詰め寄ったが、止められるはずがない。
「ヘルバ……何が駄目なんだ。どうして僕の下に戻って来ない!? 君のせいで僕の人生は滅茶苦茶になろうとしているんだぞ!?」
一人で声を荒らげるエリックの話し相手になってくれる者はいなくなっていた。
男爵にまで落とされたことにより、心を入れ替えて必死に変わろうとしていたのなら、支えてくれる者がいたかもしれない。
しかし、エリックは全く変わろうとしていなかった。今ではこうして自らを拒んだヘルバへの愚痴を繰り返すばかりだ。
それどころか、自分がこんな目に遭っているのは彼女のせいだと責任転嫁しつつある。
ヘルバが最初からあんなに美しかったら、迷うことなく結婚していた。アネッサに心を奪われずに済んだ。
そのせいで女王である母の怒りを買い、王位継承権を奪われてしまった。責任を取ってフィオーナ王国に戻り、自分の妻となるのが義務だというのにヘルバはそれを拒否した。
聖女の力と美しさを利用したのか、レムリア家の長男であるアーヴィンと親密な関係らしいのも気に入らない。
密偵を雇ってレムリア家に向かわせたところ、二人は庭園で開いたパーティーを存分に楽しんでいたらしい。なのに、自分はこんなに惨めな生活を強いられている。
唯一の救いは怪我や病の心配がないということか。以前、アネッサが自らの魔法の力を閉じ込めたペンダントを寄越したのだ。これさえあれば、どんなに重い病も酷い怪我も一瞬で治る。
あんな女でも少しは役に立つ。だが、魔力が尽きたらただのペンダントとなってしまうのだ。
「ヘルバさえ僕の物になれば……」
ヘルバの魔法があれば、この国は平穏だ。ゴーニックの薬師ギルドからの輸入に頼る必要もなくなる。つまり、レムリア家にびくびくと怯えることもない。
「そうだ。どんな手を使ってでもヘルバを取り戻せばいい。彼女がいれば僕は王太子に戻れる。国王にだって……」
最早ヘルバの意思などどうでもよかった。彼女の魂も魔法も肉体も全て自分の物だ。
エリックは歪んだ笑みを浮かべた。そこには良心など一欠片も存在せず、利己的な欲望が彼の心を満たしていた。
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