第32話・王子の現在

 殴り飛ばされた元婚約者は、鼻から血を流したまま地面に倒れていた。アーヴィンがそっと近付き、脈と呼吸の確認をしている。


「生きている」

「そりゃ手加減しましたんで……」


 殺すつもりで殴っていたら、今頃人間の形をしていなかった。

 生存確認が出来たところで、アーヴィンが怪訝そうな顔をしてヘルバに訊ねた。


「この男はその……君の恋人だったのか?」

「私をえらい目に遭わせた例の馬鹿王子です」


 包み隠さず言うと、アーヴィンは「んん?」と首を傾げた。


「これが王子とは……とても思えないのだが」

「そうなんですよ。性格が最悪過ぎて全然王子じゃないですから」

「いや、俺が言いたいのは内面の話ではなく、外見についてだ」

「外見?」


 言われてから気付いたが、馬鹿王子は地味な格好をしていた。装飾がじゃらじゃらとついた派手な服ばかりを着ていた印象があったのに。

 おまけに無駄に血色のよかった顔は紙のように白く、目の下には真っ黒な隅が出来ていた。頬もこけている。


「それに一国の王子が護衛も付けず、他国を訪れるだろうか」

「……馬鹿だから護衛を付ける必要がないと思ったとか?」

「そこまで罵るか……」


 ヘルバの偏見に満ちた推測にアーヴィンが呆れ気味に言葉を返していると、「エリック様!」と従者らしき男たちが馬鹿王子の下に集まっていた。

 そこでヘルバはハッとした。


(そういえば、そんな名前だった……)


 すっかり名前を忘れていた。

 一応、お供はいたらしい。けれど、疑問はますます膨らむばかりである。

 従者たちは本当にただの従者という感じだった。かつては戦闘のエキスパートのような護衛兵に囲まれていたはずだ。

 ところが現在エリックを起こそうとしているのは、レムリア家の使用人とあまり変わらない者たちだった。王子に配属される護衛があんな弱そうな人々なのは少しおかしい。

 すると、彼らの一人がヘルバに気付いて悲鳴を上げた。


「ひ……っ、ヘルバ様!?」

「な、何故こんなところに!?」

「お前たち、頭が高いぞ! ハイドラ様の|お言葉(・・・)が真(まこと)ならば、この御方は……!」


 全員青ざめながらあたふたしている。ヘルバはヘルバで、加速する展開の速さについていけずにいる。

 そして次の瞬間、彼らはその場に片膝をついてヘルバに向かって頭(こうべ)を垂れた。


「ぎゃっ」


 得体の知れない恐怖を感じ。ヘルバは反射的にアーヴィンの背後に隠れた。


「エリック様が大変失礼いたしました! どうかお許しください!」

「お願いします。フィオーナ国を滅ぼすことだけは……!」


 彼らは本気で怯えているようだった。涙を浮かべている者すらいる。

 大衆の面前で何を仕出かしてくれてんだと思いつつ、自分もエリックをワンパンで仕留めているので人のことは言えない。ヘルバはアーヴィンの後ろから出て来ると、静かな声で告げた。


「何でそんなに怯えているかは知らんけど、これ以上お前たちが私に干渉しないなら何もしないよ」

「そ、それは本当でございますか?」

「その馬鹿をぶん殴れたからなぁ」


 もしエリックと再会する機会があったら、殴る程度じゃ済まさねぇと思っていたが、いざ一発やってみると結構すっきりするものだ。

 もういいやと割り切って考えられるのは、今の生活に満足しているからだろう。ゴーニックに来てから美味しい食べ物をたくさん食べられるようになった。

 それにレムリア家の人々がいる。


 従者たちはヘルバの言葉に涙ぐみ、「ありがとうございます」と礼を言うと数人がかりでエリックを抱えて去って行った。最後までエリックは目を覚まさなかった。


「……君の話は本当だったのか」


 アーヴィンが口を開いた。


「本当ですよ! アーヴィンさんはずっと信じていなかったけど」

「信じるには、あまりにもおかしな点が多かったんだ。君が短時間でフィオーナ国からゴーニックに逃げて来たことといい」

「無我夢中で走っていたので」

「君は本当に何者なんだ……」


 そんな会話を交わしつつ、ヘルバはアーヴィンと共に帰りの馬車に乗り込んだ。

 どうしてあれだけヘルバを罵っていたエリックが、媚びるような目で抱き着こうとしたかは不明だ。その辺りはあまり深く考えたくない。


 どうにか記憶を消し去ろうとするヘルバだったが、レムリア家に到着すると思わぬ客人が訪れていた。


「初めまして、ヘルバ様」


 黄金の輝きを双眸に宿した老婦人は、ヘルバにゆっくりと頭を下げた。


「わたくしはハイドラ・レゾナ。フィオーナ国に身を置く『予言の聖女』でございます」


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