第16話・サーモンのクリーム煮
今晩のメインディッシュは、サーモンという魚のクリーム煮だ。ピンク色の身と白いクリームソースのコントラストが何だか可愛く感じる。まったり濃厚なミルクの匂いの奥に、魚の風味がこっそり隠れている。
「おい、今すぐこれを外せ」
「ちゃんと食べると誓ってくれるなら、外しますよ」
「あのな、俺は薬を作り終えて、他のこともしなければならないんだ。食事如きに時間を割いてられるか」
椅子の脚と肘置きに手足を括り付けられているくせに、随分強気である。流石にこんな兄の姿を見せられないと判断して、彼の部屋に夕食を運んでもらったのだが、本人に食べようという意思が全く見られない。
なので、ヘルバはすぐに縄を解かないことにした。早く外せと目で訴えるアーヴィンを無視して、サーモンを食べやすい大きさに切り分けている。
「おい、俺の食事を君が食べるのはいいが、せめて縄を解け」
「いくら私でも人の物を勝手に食べたりしませんよ。アーヴィンさんに自分から食べる気がないので、私が無理矢理食べさせます」
「……何だと!?」
「こうやって食べさせるのは慣れてますよ。はい、口を開けて」
ヘルバはフォークに刺したサーモンをアーヴィンの口元に運んだが、ものすごく嫌そうな顔で口を閉ざされた。想定内である。こんなことをされたらヘルバだって嫌に決まっているし、縄を千切ってすぐに逃げ出す。
「……こんな小さな子供みたいに食べさせられるの、辛いでしょ? だったら、自分の手で食べてください」
「食べないという選択肢はないのか?」
「アーヴィンさんが自分で食べるか、私が強引に食べさせるかです」
出来れば、そんな酷いことはしたくない。ご飯はリラックスした状態で食べるのが一番だからだ。
「……分かった。食べるから外せ」
「じゃあちょっと待っててください」
ヘルバはそう言って、アーヴィンを拘束している縄を解いた。いちいち解くのが面倒臭いので千切ってしまおうと思ったが、一応使用人からの借りものなので雑には使えない。
「こんな手段を使ってまで、俺に食事をさせようとした奴は君が初めてだ」
「イリスさんが心配してましたからねぇ」
「……君は」
「私ですか?」
「君は俺の身を案じてはいないのか」
自由になった腕を軽く振りながらアーヴィンが訊ねる。
ヘルバは少し考えてから口を開いた。
「心配しますよ。人を治す薬を作る人が、自分の健康を全然気遣ってないんですから。栄養剤ばかり摂ってても体に悪いって聞きましたよ」
「……自らの命を患者たちに分け与え、多くの命を救う。それが薬師としての在り方だ。俺はそれを実践しているだけだ」
「えっ、それはおかしいでしょ!?」
「そこまで驚くことでもないと思うが」
「だって私、自分の命分けるつもりで皆を治してたわけじゃないですし」
治って欲しいと思い魔法を使うが、「自分はどうなってもいい」とは考えたことなど一度たりともない。
薬で治すか魔法で治すか。方法は違えど、どちらも人を救うことを役割としている。
だがヘルバにとって薬師の理念は、到底理解し難いものだった。
「そんな大切なものをホイホイ他人にあげてたら、なくなっちゃいますよ。ちゃんと大事にしてないと」
「……処刑された罪人を自分だと思い込むことがあれば、自己犠牲を強く否定する。君は妙な聖女だ」
「え? 罪人? 思い込む?」
何それ、怖い……。とヘルバが怯えていると、アーヴィンは「……今のは忘れろ」とやや早口で言った。
「じゃ、じゃあ、私もご飯食べに行きますから、全部食べてくださいよ」
「待て」
部屋を出ようとすると、引き止められた。
「責任を持って最後まで俺を見張っていろ」
「え? それはいいですけど」
「だが、俺のせいで君の食事が遅くなれば母上とイリスが黙っていない。だから君もここで食べろ」
「はぁ……」
「嫌ならいい」
そう言いつつも、アーヴィンはどこか拗ねたような顔をしていた。
魚の肉は不思議だとヘルバは思う。獣の肉と違って、噛むと身がほろほろと崩れていくのである。なのにしっかりと旨みがある。肉と違って火を通してもピンク色のままなのも大きな謎だ。
優しい味なので、クリームソースの風味を壊すこともない。
魚と一緒に煮込まれた茸もサーモンと違った歯応えが楽しい。
(陸で採れたミルクと海の魚がこんなに合うなんて驚いたなぁ……)
上機嫌になりながらヘルバはふとアーヴィンの方を見た。
彼もちゃんと食べているようでホッとした。
それにしても。
「…………何だ」
「アーヴィンさん、食べてる時の顔が可愛いですね」
「ぐっ!?」
アーヴィンが突然噎せた。
「えっ、そんなオーバーなリアクションします!? 気を悪くしたなら謝りますけど!」
「俺の容姿を褒める人間は大勢いるが、この歳の俺に『可愛い』と言ったのは君が初めてだぞ……」
「ああ、見た目が可愛いとかじゃないんですけどね」
「は?」
「ただ、とっても美味しそうに食べてるなぁって思って」
てっきりさっさと食事を済ませるために、急いで食べるのかと思った。
しかし実際はパンも、サラダも、パンも、クリーム煮も、皆しっかりと味わって食べているのだ。その表情はとても穏やかで、あまり見られないものだった。
「アーヴィンさんって食べるのがとっても大好きな人じゃないですか」
「大好きというわけでは……」
「私はアーヴィンさんが美味しそうに食べている顔大好きですよ」
アーヴィンは再び噎せた。
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