第12話・薬師は聖女が欲しい
イリスにとって兄は『少し可哀想な人』だ。
公爵家の長男として生まれた彼は、たくさんのものを持っている。
薬師として一番重要な膨大な知識を詰め込めるだけの頭、父の補佐でギルドの経営を行うための計算能力。
現状に満足することなく、常に新たな新薬の研究、開発に取り組み続ける気高い精神。
一見無愛想だが患者に対しては親身になって接し、どのような生活をしていれば、病気が早く治りやすいか説明する優しさ。
そして異性であれば、誰もが一度はときめく素晴らしい容姿。
アーヴィンにとって、それは一番欲しくないものだったろうとイリスは思う。
太陽の光を集めたかのように美しい金髪。澄み切った菫色の双眸。神の造形かと見紛うような精悍な顔立ち。
まず最初にアーヴィンを一目見て陥落し、そこからレムリア公爵家の権力と地位に魅入られる。
全員が全員というわけではないが、アーヴィンと出会ったがために狂ってしまった令嬢は大勢いる。ヘンリエッタも典型的なその一人だ。
同じ貴族同士、もしかしたら……と甘い考えを起こし、増長することが主な原因だろう。
アーヴィンが結婚を望まなくなったのは、彼女たちが原因と言ってもいい。
「イリス、あれはお前が雇ったわけではなかったのか?」
その兄が夜に「聞きたいことがある」と言って部屋にやって来たかと思えば、そんなことを聞かれたのでイリスは驚いた。
明日、ヘルバは屋敷から去ることになっている。恩着せがましくなく、使用人に対してもしっかりとお礼を言う優しい人だ。
ずっといてくれないかなぁと思っていたが、留まる理由がないと言われてしまえば無理には引き止められない。ちゃんとご飯を食べられる生活が出来ればいいのだが……。
一番最初にヘルバに救われたエレナも、亡くなった妹と似ていると喜んでいたレイアも、顔には出していなかったが落ち込んでいた。
ほんの少ししか一緒に過ごしていなかったのに、ヘルバには不思議な魅力があって、皆それに惹かれているようだった。聖女だからなのか、ヘルバ自身に備わっているものなのか。
ただ、終始ヘルバに心を許すことがなかった兄が、彼女を気にかけている。意外なことだった。
「はい。私はヘルバさんがいなくなってしまうのが寂しいと思いますけれど……」
「だったら、引き止めればいいだろう」
「お兄様?」
「あの聖女は甘い部分がある。君が泣き落とせば、恐らく使用人になってくれると思う」
それはイリスも感じている。きっと、ヘルバは誰かが強く引き止めれば屋敷に残ってくれるはずだ。
けれど、ただ引き止めるのではない。彼女でなければ駄目だという、しっかりとした理由が必要だ。
たとえば、癒しの聖女として、レムリア家の人々を癒す存在になって欲しいとか。ヘルバ自身ではなく、聖女としてのヘルバを求めているようなものなので、絶対に言いたくないが。
「チャンスは今夜しかないぞ。明日、こっそり屋敷から抜け出している可能性もある」
「ええと……お兄様はもしかして、私にヘルバ様を引き止めて欲しいのですか?」
「俺が? 何故だ」
アーヴィンは僅かに眉間に皺を寄せた。使用人であれば慌てて発言を撤回するところだが、イリスは臆することなく言葉を続ける。
「お兄様もヘルバ様を気に入っているから、とか?」
「馬鹿者、そんなわけがあるか。確かにあれは慈愛の心の持ち主で、かつ生命力に満ち溢れた強い娘だ」
「相当気に入っているようですけれど……」
「そして、少し危うい」
アーヴィンは表情を曇らせた。
「あれは偽聖女として裁かれた同名の女を、自分と重ねている節がある」
「そ、そんな……」
「そのくらい、不安定な精神の持ち主であるということだ。野放しにしておけば、良からぬ連中に利用されるのが目に見える」
「そんなの絶対にいけません!」
あんなに優しい聖女が悪人たちに都合よく扱われるなんて、あってはならない。首を大きく首を横に振るイリスの青い瞳には、涙が浮かんでいた。
「だったら、彼女をどうにか説得しろ。その内容なら俺も考えてやる」
「………………」
しかし兄の一言にその涙が引っ込んだ。
もう彼自身がヘルバを手放したくなくて、けれど素直になれないので、妹に頑張ってもらおうとしているようにしか見えない。
「やっぱり、お兄様もヘルバ様にいてもらいたいのでしょう?」
「何のためにだ。薬師が聖女の魔法に頼ってどうする。聖女であることを抜きにしたら、ただの食べることが好きで、優しいだけでなく心身ともに強い娘に過ぎない」
「お兄様、ヘルバ様が大好きなのですね」
「いいや、ちっとも」
「そうですか……」
性格面やその在り方を好んでいるものの、魔法以外では特に何も持たないヘルバを屋敷に留めるだけの目的がない。学のない女はお断りと宣言しているアーヴィンは、そこを曲げることが出来ずにいるらしい。
アーヴィンの見た目と公爵家の地位しか見えていない者たちならともかく、ヘルバなら全然曲げちゃってもいいとイリスは思っているのだが、そうもいかないようだ。
思えば、ヘルバはアーヴィンを一目見ても何とも思っていない様子だった。むしろ付き纏う彼に「うわ……っ」と引いていたらしい。そういう部分も、アーヴィンを惹き付けたのかもしれない。
このままヘルバがいなくなってしまったら、きっと兄はもっと拗らせた性格になってしまう。どうしようとイリスが悩んでいる時だった。
何やら部屋の外が騒がしい。怒号のようなものが聞こえる。それも女性の。
「……まったく」
「あ、お兄様は姿をお見せにならない方が……」
「いい。使用人たちに余計な苦労をかけさせるわけにはいかないからな」
アーヴィン狙いの女性が屋敷に押しかけたのだろう。近頃はアーヴィンが病で倒れたということでめっきり減っていたが、少し前まではしょっちゅうだった。
だが部屋の扉を開けてすぐに、アーヴィンは固まった。
怒鳴り声の正体はヘルバのものだったのだ。
「これもこれも全部危ない草! この赤い花が咲いてるやつなんて私が食べても、相当ヤバいやつ! 舌がビリビリして『うわっマズ!』ってなるから!」
「も、申し訳っ、本当に申し訳ありませんでした!」
エントランスに散らばる薬草。キレ散らかしているヘルバ。ヘルバに片手で胸倉を掴まれ、涙目の薬草の仕入れ業者。言葉を失っているレイア。周囲で呆然としている使用人の面々。
カオスな状況になっていた。
「……何だこれは」
「ヘルバ様どうされたのでしょうか……?」
アーヴィンも、ついてきたイリスも困惑していた。すると、近くにいたメイドが興奮気味に経緯を話してくれた。
「業者の方が薬草を持って来てくださったのですが、ヘルバ様がその中に紛れていた毒草を探し当てたのです」
「あの聖女が?」
「し、信じられない話ですが、何でも匂いで毒草があるとお気付きになったようでした。次から次へと発見し、あのようにお怒りに……」
「………………」
「ア、アーヴィン様?」
「……これだ」
そう呟いたアーヴィンの口元には笑みが浮かんでおり、イリスもその横で大層喜んでいたという。
数日後、レムリア公爵家に一人の使用人が入った。マロンブラウンヘアーの美しい少女で、薬草と毒草を的確に判別することが出来るという。アーヴィンの下で薬草学を学びながら、彼の手伝いを行うそうだ。
誰もが振り向くような容姿でありながらお洒落にはまるで興味がなく、好きなことは食事。特に肉料理。
そんな彼女が実は癒しの聖女だと知られるのは、暫く後の話である。
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