第9話・聖女の力

 ヘンリエッタの屋敷を訪ねると、応対に出たメイドから今は本人は不在だと言われてしまった。

 残念、と肩を竦めるヘルバだったが、アーヴィンはメイドが一方的に閉めようとしている扉の隙間に足を挟んだ。その顔は剣呑な色を宿している。


「屋敷の中から薬の匂いがする。何かを隠しているな?」

「い、いえ、そのようなことは……」

「この屋敷には嘘を吐くメイドがいると言い触らしてもいいんだが」


 紛れもない脅迫である。メイドはコクコクと頷くと、「少々お待ちください」と言って奥に戻って行った。

 二、三分してから彼女は戻って来た。

 目の下に隈を作った女性を連れて。


「あの女の母親だ」


 アーヴィンがヘルバに耳打ちする。


「アーヴィン様、病に倒れたと聞いておりましたが……?」

「俺のことはいいでしょう。ヘンリエッタ嬢に会わせてください」


 するとヘンリエッタの母親は希望を見出したような表情を見せた。彼女が何を考えているのか、嫌でも想像が出来る。


「まあ……! 娘に会いに来てくださったのですね!」


 やっぱりか! ヘルバはげんなりとした。明らかにアーヴィンがヘンリエッタに気があること前提のような口振りである。

 アーヴィンの眉間に皺が誕生したことに気付いていないのか、ヘンリエッタの母親はにこやかだ。だがヘルバに視線を向けると、露骨なまでに態度を変えた。


「……こちらのお嬢様は?」

「あなたには関係のないことです。それで、ヘンリエッタ嬢は?」

「ええ! 実は少し前から病を患っていて、ずっと寝たきりになっているのです」

「病に……?」

「最初はただの風邪だと思っていたのですけれど、日に日に体が弱り始めました。今はあらゆる薬を試しているのですが、どれも効果がなくて……けれど、アーヴィン様が来てくださったのなら、もう安心ですわね。ヘンリエッタのために薬を持ってきてくださったのでしょう?」


 ヘンリエッタの母親は縋るような視線をアーヴィンに送るが、本人はヘルバをじっと見詰めるだけだった。ヘルバもそれに応えるように頷く。

 ヘンリエッタの異変に、魔物との契約が関わっている可能性がある。


「さあさあ、どうぞアーヴィン様」


 そう言ってアーヴィンだけ屋敷の中に入れ、後から続こうとしたヘルバを待たずに、強引に扉を閉めようとするヘンリエッタの母親。

 だが、アーヴィンがすぐに扉を押さえてくれた。


「彼女は俺の婚約者です」

「こ……!?」


 ヘンリエッタの母親が顔色を変えた。まあ、嘘だろうと分かっているので、ヘルバも愛想笑いで乗り切る作戦に入る。


「他人の婚約者にこのような嫌がらせをするのが、この家のやり方ですか。覚えておきましょう」

「な、何をおっしゃるのです。今のはうっかり閉めそうになっただけ。嫌がらせのつもりは毛頭ございません。ですが不快に思われたのなら謝罪いたしますわ」


 媚び諂(へつら)った笑みを貼り付ける彼女にヘルバは軽く会釈だけした。嫌な臭いをぷんぷんさせている人間から謝られたところで、嬉しくも何ともない。せめて肉寄越せ。




 ヘンリエッタの寝室の前では、数人の男たちが険しい顔で会話をしていた。そのうちの一人がアーヴィンを見て、焦った様子で他の男に声をかけている。

 彼らは引き攣った笑みを見せながら、アーヴィンに頭を下げた。


「これはこれは……アーヴィン様。何用ですかな」

「それはこちらの台詞だ。大した実力も持たない薬師ギルドの面々が、何故こんな場所にいる?」


 彼らは嫌味が混ざったアーヴィンの問いかけに一瞬眉を顰めたが、すぐに何事もなかったかのように答えた。


「ヘンリエッタ嬢の病を治す薬を届けに参りました」

「だが、その様子では徒労に終わったようだな」

「……っ、そのようなことはございません。我々の薬でヘンリエッタ嬢は徐々に回復しております。あなたやランドルフ様の出る幕はないかと」


 なるほど、アーヴィンの言っていたことは本当だったようだ。向こう側もアーヴィンに対して好感情を持っていないということがよく分かる。


「では我々はこれで失礼いたします。ああ、くれぐれも、ご自分で用意した薬を与えないようにお願いします」


 そう言って立ち去ろうとする男たちだったが、その一人がヘルバの前で足を止める。


「お美しい方だ。是非お名前を……」

「彼女は俺の婚約者だ。手を出すな」


 アーヴィンに睨み付けられると、男はすぐに退散した。


「……結構使えますね、その嘘」

「君を聖女だと明かせば、騒ぎになりそうだからな。ただの使用人と言ってもいいが、婚約者と説明した方が君を守るいい理由にもなる」

「はぁー」


 生真面目な男である。そんなにか弱い存在ではないので、自分の身くらい自分で守れるのだが。


 アーヴィンが先に部屋に入る。

 すると、ベッドで横になっている少女がいた。あれがヘンリエッタだろう。


「どうしてよ……話が違うじゃない……おかしいわ。こんなの酷過ぎるわ……」


 げっそりと痩せた顔で、虚ろな瞳で天井を見詰めながらぶつぶつと呟いている。

 どこからどう見ても回復しているようには見えない。廃人同然の姿にアーヴィンが鼻を鳴らした。


「徐々に回復している、か。これよりも酷い状態だったとは」

「あ……その声……」


 ヘンリエッタがゆっくりとこちらを向いた。アーヴィンの姿を捉えた彼女の顔に、じわじわと怒りと困惑が浮かび上がる。


「ど、どうしてアーヴィン様元気なの……!? あいつ騙したのね!」

「あいつとは誰だ」

「真っ黒い化物よ! 呪術の本を読み漁っていたら私の前に現れて言ったの! 生気をいくらか寄越せば、アーヴィン様を苦しめるための力を貸してくれるって!!」


 あっさりと自白した。生気を奪われたせいで、こんなに痩せ干そってしまったらしい。

 ヘンリエッタの頬には、蜷局(とぐろ)を巻いた蛇の形をした刻印が刻まれている。魔物と契約した証だ。


「何よ何よ! あいつ嘘ばっかりじゃない! 生気だってパパとママのをあげるって言ったのに、私からごっそり奪っていったのよ!? しかもアーヴィン様も何ともないなんて……ああもう!」

「……とんだ親不孝者だな。両親を生け贄として捧げるとは正気の沙汰とは思えない」


 それな! ヘルバは内心でツッコミを入れた。魔物の甘言にまんまと引っ掛かったのは百歩譲って仕方ないとして、対価として両親の生気を奪わせようとしたとは。

 アーヴィンからの蔑みの言葉に、ヘンリエッタは元想い人を睨みながら反論した。


「だって二人とも役立たずなんだもの! アーヴィン様と結婚出来るようにしてあげるって言ったくせに、何もしないでお薬の本ばっかり買ってきて!」

「えぇ……ご両親すごく力になってくれてたじゃんよ」

「はぁっ!? 何よあんた!? アーヴィン様の側から離れなさいよ!」

「何でキレてんの!? お宅アーヴィンさんのこと嫌いになったんじゃないの!?」

「ええ、大っ嫌いよ! だからアーヴィン様が他の女と結婚するなんて絶対に許さない! どうしてあんたみたいなブスが……!」


 しかし、生気を奪われたとは思えないくらい元気いっぱい。これではまともな会話が難しい。

 良心の呵責がこれっぽっちもないヘンリエッタに、アーヴィンが溜め息をついていた時だった。

 ベッドの下から伸びた黒い腕のようなものが、アーヴィンの足首を掴んだ。


「これは……」

「わ、私に酷いことをした化け物よ。ふふ、あははっ、こいつが直接アーヴィン様を殺してくれるならそれでもいいわ! すぐに私も後を追うから天国で結婚しましょうよ、アーヴィンさ」

「ふんぬっ」


 ヘンリエッタの妄言を遮ったのは、ヘルバの気合いが入った力強い声だった。黒い腕を掴み、ベッドの下から無理矢理引き出したのである。


「ギィッ! クソッ、離シヤガレ!」


 現れたのは、猿のような胴体に蝙蝠の翼を生やした化け物。全身が真っ黒だ。

 アーヴィンが忌々しげに顔を歪める。


「そいつがヘンリエッタをそそのかした魔物か……!」


 魔物はアーヴィンへと不気味な笑みを向けた。


「ケケッ、俺ノ呪イヲ受ケテ生キテヤガルトハナァ! ダッタラ、今度ハ俺ガ──」

「ソイヤッ!!」


 ヘルバは魔物の頭を鷲掴みにすると、次の瞬間壁に叩き付けた。

 黒い何かが周囲に飛び散る。


「グアッ! ナ、何ンダコノ女……ッ」

「セイヤッ!!」


 再び魔物の頭部を壁に叩き込む。今度は先程より強めに。

 ゴキッと何かが砕ける音がしたあと、魔物は断末魔を上げることもなく砂のように消えていった。

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