第3話・湖の畔での出会い
下水道を抜け、人気のない場所を走って走って辿り着いたのは静かな森の中だった。
清涼な空気が流れており、どこからか愛らしい鳥の鳴き声が聞こえる。生い茂った木の葉の間から差し込んだ陽光にヘルバは目を細めた。
久しぶりの外の空気が美味しく感じる。長い間地下牢で過ごし、下水道を全力疾走した後だから余計にそう思えるのだろう。
本当だったらすぐにでも昼寝をしたいところだが、体が臭いのでまずは水浴びをしたい。体臭に下水道の悪臭がプラスされて吐き気を催すまでになっていた。栗鼠(リス)を見かけたが、ヘルバに気付くなりものすごいスピードで逃げた。
ヘルバ自身も臭いと思うのだ。これは仕方ない。
湖の畔に辿り着き、ヘルバは助走をつけてから美しい青色の湖に飛び込んだ。
久しぶりの水の感触。牢屋に入れられてからシャワーを浴びる機会すら与えられていなかったのでとても気持ちがいい。
湖の底には水草が生えており、鮮やかな柄の小魚がたくさん泳いでいる。ヘルバが近付くと、小魚は水草の間に身を潜めた。
ただ水中にいるだけなのに、汚れが落ちるような不思議な感覚。
この湖は水神の加護があるのかもしれない。水面から顔を出して、ふーと息を吐く。
「お腹空いた……」
脱獄をした。身も清めた。一段落したところでヘルバの胃袋がきゅるる……と切なげに鳴いた。
地下牢では塩味のスープとカチコチのパンばかりを食べていた。時折出される干し肉も不味すぎて一口食べて以来、手をつけていなかった。あれを食べていたら肉そのものが嫌いになりそうだ。
というわけで、ヘルバは深刻な空腹に悩まされていた。
いっそ、小魚を捕まえて生のままいただいてしまおうか。森の中にいる小鳥の方が食べ応えはありそうだが、毛を毟るのが面倒臭い。
小魚ならつるっといけそうだし……と考えていた時だ。
数人が畔にやって来たのが見えた。ヘルバを追ってきたのかと慌てて水中に潜ろうとしたが、その内の一人が子供だと気付く。
赤い刺繍が施された可愛らしいドレスを着た金髪の幼い少女と、黒タキシードの男性に支えられるようにして白髪の老女が畔に立っている。遠くからでも彼女の体調があまりよくないとすぐに分かった。
皺だらけの顔は真っ青でヘルバより頬が痩けている。窪んだ目には生気が宿っておらず、半開きの唇は小刻みに震えていた。
子供と男性はそんな老女を悲しげに見詰めていた。
(まさか、そのおばあちゃん湖に投げるつもりか……?)
他に誰もいないこの場所でなら、老女が誤って足を滑らせて湖に落ちたと証言しても疑われない。老女の介護に疲れて……と、ヘルバはどんどん物騒な方向に妄想していく。
老女の水死体を餌にしてぶくぶく太っていく小魚なんて嫌すぎる。どんな話をしているのか気になって、もう少し畔に近付いてみる。
「おばあ様、見てください。おばあ様のお気に入りの場所の湖ですよ……」
「ええ……そうねぇ。とっても綺麗。最期に来れてよかったわ」
「おばあ様……」
「エレナ様、そのようなことをおっしゃらないでください。まだ望みはあるかもしれないと医者も言っていたではありませんか」
「優しいお医者様だったわね。でも、もういいの。あなたたちとこうしていられるだけで私は幸せよ」
最期の思い出作り的な感じで訪れたらしい。とりあえず老女を投げる気配はなさそうなのでほっとする。
けれど……。ヘルバは老女をじっと観察していた。彼女の全身には黒色の蔦が纏わり付いている。
あれが老女を蝕んでいるものの正体だ。今ならまだ間に合う。
ヘルバは水面から頭だけ出したまま、畔へと泳ぎ出した。
「それー、私なら治せますよー!」
「きゃああああ!!」
「エ、エレナ様、イリス様お逃げください! あれはきっと恐ろしい魔物です!!」
「誰が魔物じゃあ!!」
ザバッ、ザバッと波立てながら接近してくる女の生首は恐怖以外の何物でもなかった。
体が臭かったので水の中にいた。ヘルバの説明に半信半疑になりながらもイリスは頷いた。男性はパトリックと名乗った。どうやらイリスとエレナは貴族であり、彼女たちに仕えているらしい。
「……おばあ様は原因不明の病に冒されているのです。発症すると高熱、嘔吐、全身の痛みに苛まれます」
「エレナ様は強力な鎮痛剤により痛みからは解放されたものの、その副作用で日に日に衰弱していき……」
「おばあちゃん、どうしてこんなもの持ってるんですか? 苦しいに決まってますよ」
「こら、小娘! 水浸しのままエレナ様に近付くな。それとエレナ様に何だその口の利き方は!!」
パトリックを無視してヘルバは木に凭れて座り込んでいるエレナの服の袖を捲った。
すると手首から肘にかけて皮膚が真っ黒に変色していた。それを見たイリスが辛そうに顔を背ける。
エレナは諦めたような笑みを浮かべ、ヘルバに「気分を害したでしょう、ごめんなさいね」と謝った。勝手に袖を捲ったのはヘルバの方なのだが。
「この黒い痣が現れた箇所は強烈な痛みと熱に襲われるの。そして全身に回った時、きっと……」
まあ、死ぬだろうなとヘルバは思った。
だがエレナの痣はまだそこまで広がっていない。よかったと思いながらヘルバはエレナの両手をぎゅっと握り締めた。骨と皮だけのような皺くちゃの手は、ひんやり冷たい。
ヘルバは目を閉じて集中した。すると、ヘルバの体から雪のような純白の光が溢れ出す。それらは握り締めた手を伝い、エレナの体の中へと吸い込まれていく。
その幻想的な光景を目の当たりにしたパトリックはあんぐりと口を開け、イリスは目を輝かせた。
「な、な、な……」
「み、見てください、パトリック! おばあ様の痣が……!」
エレナの腕から痣が消えていき、元の肌色に戻っていく。
自らの死を見詰めているようだった目にも生気が宿り、顔色もよくなっている。
ヘルバは瞼を開き、エレナの体に黒い蔦がないことを確認して手を離した。
「もう大丈夫ですよ」
「……すごいわ。全身の倦怠感も一気に引いてる」
「ついでに鎮痛剤の副作用っぽいのも治しておきましたので。よかったよかった」
「え、ええ……」
自身の変化に驚きながらエレナが立ち上がる。そうして歩き出す祖母にイリスが泣き出す。
「お、おばあ様がご自分で立って……」
「エレナ様~~~!! また健康な御姿が見れるとは……うぅっ、うあぁぁ~~~!!」
パトリックが豪快な男泣きを披露している。ちょっと落ち着けと思いながらも、ヘルバは首を捻っていた。
エレナの体を蝕んでいた|アレ(・・)は決して病などではない。しかしどうしてまた、あんなものに苦しめられていたのと疑念を抱いていると、涙ぐんだイリスに頭を下げられた。
「祖母を救ってくださってありがとうございます! あなたは祖母の、いいえレムリア家の恩人です!」
「い、いえ、どういたしまして……」
ヘルバは感謝されたり、お礼を言われるのが苦手だ。どう反応していいのかいまいち分からないし、背中の辺りがむずむずするからだ。
なので「礼を言うくらいならお肉をください」と食料を強請っていたのだが。
ぐぅぅぅ、とヘルバのお腹から大きな音が鳴った。思わずその場に蹲るヘルバ。恥ずかしいからではない。空腹状態なのに力を使ったせいで余計に腹が空いたのだ。
「うぅぅ……」
もう小魚獲って来よう。そう思い、湖に飛び込もうとした時だった。イリスがパトリックに何かを命じてから、ヘルバの服の裾を掴んだ。
「ま、待ってください! 行かないで!」
「行かせてください! 私を満たせるのはもう彼らしかいないんです!! 小魚なら骨ごといけると思うので……」
「お腹空いたんですよね!? だったら今パトリックに用意させていますから、それをいっぱい食べてください!」
「いいんですか!?」
人助けをするのはいいことだ。
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