比翼の鳥に憧れた

「アリンはどうしてそんなに強いの」

 黒い森は何層にもなって光を閉ざすから夕日は一度だって見たことが無い。屋敷の屋根に上って見ようとしたとき、どこから現れたのか、叔母がこの屋敷に隠して置いているらしい召使の一人に止められた。あれから一度も召使には会っていないけれど、屋敷といえば召使がいるものだ、と『ロミオとジュリエット』を読んで知っていたから驚きはしなかったし、時折ふとしたときに生活用品が補充されたり取り替えられたりしていたから、面会に来る叔母以外にも人がいるのは何とはなしに知っていた。だから夕日は、本でしか知らない。テ・アリンは夕日を見たことがあるのだろう。

 テ・アリンの話が終わった後、私はしばらく何も言えなかったけれど、ココアも無くなってしまって手持ち無沙汰になってしまったから結局口を開いた。

「強く何か無いさ。ただうじうじ悩んで短い人生を無駄にする方が嫌だったってだけ。こんな体の僕だからさ、きっと長くは生きれないって婆ちゃんが言ってた」

 テ・アリンはそんな話をする時も笑顔だった。長くは生きれない可哀想な自分、なんてこれっぽっちも考えていなくて、ずっと前ばかり見ていた。

「それが強いって言ってるんだ。私は、ずっと、この森で、私は独りだってことばかり考えてきたのに。アリンは、そういうことを言わない」

 テ・アリンはまたあのこげ茶色の瞳を向けて、でも今度は笑わなかった。

「僕だって悩んだ、悩まないわけが無かった。でもさ。何で他人が決めた社会に合わせようとして僕らが悩まなくちゃいけないわけ? 人生の主人公は僕らなんでしょ、社会が、大人たちがそう言っているでしょ、なのにどうして脇役に合わせようとして、僕らが悩まなきゃいけないわけ」

 テ・アリンはそこまで一息に言うと、静かな宣戦布告のように言い放った。

 僕らが世界を作ったって良いでしょ。

 杏里はそう思わない?  アリンは笑わないまま、私にそう訊いた。

「……たい」

気付くと、私の口が勝手に動いていた。え、とテ・アリンも訊き返す。

「この森から出たい」

 ずっと一人だった。

「あなたとこの森から出たい」

 ずっと黒い森の影でひっそりと、隠された人間として生きてた。隠されるべき人間として生きてきた。そんなことは間違っている。

「あなたとこの森から出て、世界を見たい」

 ずっとこの世界から、誰でもいいから、誰かに私を見出して欲しかった。この世界には、私がいると、誰かに知って欲しかった。

「私に、外の世界を見せて。テ・アリン」

 これが、初めて私が声にした願い。

 両親にも叔母にも、肯き続けた私の、最初のお願い。

 テ・アリンなら信じられると思った。同じ生まれ方。違う生き方。それから、あの笑顔。テ・アリンなら私を一人にはしない。誰のことも信じられなかった私には嘘みたいに、テ・アリンは大丈夫だと、そう思えた。

「本当に?」

 テ・アリンは笑っていた。

 けれどもあの笑い方ではなく、静かに、にっこりと。王子様と結婚式を挙げたときの『シンデレラ』のように。本当に、と私も笑い返した。

「決まりだ。『眠れる森の銀色狼』さん。これから宜しく」

 テ・アリンの細い指はとてもすべすべしていて握手をしただけで消えてしまいそうだったけれど、笑顔は確かにそこにあり続けていた。テ・アリンとならきっと臆することなく世界を、夕焼けを、見ていられる気がした。

 光を知らない私が、光と出会った。

 『眠れる森の美女』がいたような森の奥深くの屋敷で、何にだってなれると知っている『醜いあひるの子』は空を飛んで私に会いに来た。『比翼の鳥』に憧れていた私は、運命の人を、この世界から見出してくれる人を探していた私がやっと見つけた、私の片割れ。テ・アリン。一枚ずつの羽しか持たない、二羽でやっと完璧に飛べる『比翼の鳥』が男と女ではないといけないなんて、そんなことは無いはずだ。何者でもない私たちだってきっと、『比翼の鳥』になれる。

「たくさん本があるんだね」

 テ・アリンは屋敷を見回しながらそう言った。

「そう、たくさん本がある」

「すごいな、これ全部読んだの」

「うん」

 私は『果てしない物語』の背表紙を撫でながら肯いて、それから、首を横に振った。

「でももう要らない、必要ない」

 どうして、と驚くテ・アリンに微笑みかける。

「だって本の主人公はみんな男か女。私だったことも、アリンだったことも無い。そんな物語、もう夢に見る必要は無い。王子様も要らない。私はお姫様にもならない。私には、アリンがいる。私には、私の物語がある」

 私も、静かに宣戦布告する。この世界、こんな世界、私を閉じ込めなくてはならない世界は、もう要らない。

「アリン、行こう。私と来て」


 私とアリンの瞳が融けあって、あ、まつげ、と思った瞬間、アリンが重ねた唇から二人の何年もの人生が流れ込んできて、涙が止まらなかった。




[エピローグ へ続く]

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