醜いあひるは空を飛び

「君!  君!  君が『眠れる森の銀色狼』かい!?」

 黒い森の向こう側から来たその人間は私の後ろ姿を見てそう言った。今までほとんど誰も近寄りもしなかった黒い森を超えて。

「誰、なの……?」

 その人間はだった。否、私のように思えた。

 黒くて長い髪、薄い唇、女性にしては角があり、男性にしては線が細い。

「驚かせてすまない、僕はテ・アリン」

 テ・アリン、韓国の子なのだろうか。

「韓国は最南、斉州という島の生まれだが、ずっと前にあの息苦しい島は逃げ出してきたんだ。世界中を旅していたけど、しばらく前からずっと日本にいる」

 私には斉州も世界も分からなかったけれど、日本語上手いね、とだけ呟く。

「ありがとう。頑張ったんだ。……君は?」

「あんり……あんずさとで杏里。藤原杏里」

「杏里、か。アリンとすごく似ているな。よろしく、杏里」

 そう言ってテ・アリンは白く綺麗に並んだ歯を見せ、にかっと笑った。私はその『長靴下のピッピ』の挿絵で見たような笑顔にふっと心が揺らぎかけたが、叔母のあの日の言葉を思い出してもう一度強く拳をにぎりなおした。決して自分のことを話してはいけないよ。決して知らない人間に触れてはいけないよ。

 だから極力声を硬くしてこう訊いた。

「ねぇあなた、どうしてこの森に近づいたの。どうして、私を知っているの」

 テ・アリンは私の声に傷ついたように笑顔をゆっくりと消し、元の静かな湖畔のような無表情を作って、困ったように眉を下げた。

「村の子が言っているのを聞いたんだよ。この森の奥の屋敷には『眠れる森の銀色狼』がいるって。だから僕はその『銀色狼』を探してここまで来た」

 そうだ、その言葉、その言葉が引っかかっていたんだった。

「さっきから何? 『眠れる森の銀色狼』って。私そんな物語聞いたことが無い」

 テ・アリンは目を丸くして、本当? と言ってから、眠れる森の銀色狼の話をしてくれた。黒々として人を拒む森の奥に屋敷があれば、そこは性を持たない森の神の使い、すなわち「銀色狼」が住む場所だと。 

「性を持たない……『銀色狼』?  森の神の使い?」

 性を持たない、という言葉にどき、とした。

「そう。だから僕は『銀色狼』を探しに来たんだよ。僕にも性が、無いから」

 テ・アリンにも「性が無い」?  確かに今テ・アリンはそう言った。疑いようもなくはっきりと。「僕にも性が無いから」と。

「テ・アリンにも……?」

 私の震える声の末尾を聞くや否や、テ・アリンはずい、と私に近づいた。

「やっぱり君が『銀色狼』なんだね?」

「わ、私には確かに性は無いけれど、銀色でも、狼でもないのに?」

 テ・アリンは再びにかっと笑ってさらに私との距離を詰めた。私は恐る恐る後ろへ下がりながらも、そのテ・アリンの美しい瞳を見つめていた。こげ茶色の透き通るような瞳はこの森の全てを吸い込んで、私だけを映していた。

「『銀色狼』なんてただの言い伝えだよ。僕が探していたのは性を持たない人間、君なんだ」 

 決して自分のことを話してはいけないよ。決して知らない人間に触れてはいけないよ。叔母の声が蘇る。けれども私はその声を振り払うようにして、出来る限りの声で言った。「屋敷に、来る?」


 テ・アリンは薄い体に真っ黒のシャツとパンツを纏っていた。白くきめこまやかな肌がよく映える。確かに女らしい特徴も、男らしい特徴もことごとくが消されたように判断し得なかった。

「アリンというのはね、女の名前なんだ」

 私が台所からココアを運ぶと、ありがとう、頂きます。と丁寧な礼をして少し口をつけてからテ・アリンは語り始めた。私も何も言わずに肯き、先を促す。

「僕には性器が無かった。ありえない事だと言うんだ、島の者も、島から出てからも。性器が無いだけで性が決まるわけじゃないし……ホルモン、とかそういうものもあるしね。それに、決める、ことだって出来た。親は僕に女の子として生きて欲しい、という願いもこめてこの名前にしたんだって。僕には兄貴が2人もいたから」

 テ・アリンは私と同じような境遇の元で生まれてきたのだった。苦しみ、疎外され、決めることも叶わず。

 けれど、テ・アリンは私と生きる道が違ったのだった。

「だけど僕は、それってものすごく自由なことだと思ったんだよ」

 テ・アリンは俯いていた顔を上げて、はっきりと笑った。私はまた、私の胸がどき、と鳴ったのを感じた。黒い森の影でひっそりと生きてきた私は、テ・アリンの光のような笑い方に焼き尽くされてしまいそうだった。

「僕は女にも男にもならなくていいって、神様がそう言ってるんだと思ったんだ。神様が、僕が男と女の醜い争いに飛び込んでいかなくて良いようにって」

 僕は、だから、自由に生きることにしたんだよ。『醜いあひるの子』が、白鳥になれたみたいに。

 テ・アリンは、そう言ってもう一度笑った。




[比翼の鳥に憧れた へ続く]


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