A Tale of Independents

Yukari Kousaka

眠れる森の奥深く

「お前はここで暮らしなさい。人間は、いつかお前を傷つけるから」

 もう何年も前に聞いたはずの叔母の声が蘇る。あの時の叔母の表情も、私が立っていた場所も、私の恰好も思い出せないけれど、叔母の声だけは覚えている。私を哀れみ、労わり――畏れる声だけを。

 生まれたその瞬間から一人ぼっちだった人なんてきっといない。誰でも他の誰かと共有点を持ち続けて、共有点を繋ぎとめて生きている。一人だと思っていても、どんな人にも必ずその人を繋ぐコミュニティが存在する。好もうと好まざろうと。

 私にはそのコミュニティが、最も小さい単位ですら、存在していない。私を繋ぐものは、私を留め置くものは何一つ無い。私は、正真正銘の「一人ぼっち」。

 私には性器が無い。

 名残のようなものも、欠ける前の元の姿も無い。どこからどう見ても窪みも隆起も無いなめらかな皮膚の連続が、腰から下も続いていた。村の医者には勿論何も分からなかった。町の医者も呼んだそうだが、ただ途方にくれて帰る彼を、途方にくれて見送ったのだという。私のことは誰にも分からなかった。私でさえ、分からなかった。

 心だけでも決めるという選択肢もあったのだろうが、女性も男性も私には合わない気がしていた。女性性のやわらかさも、男性性のかたさも、私には無かった。分からないというよりは、無い、と決めているような気もしていた。

 両親は私を捨てた。私が親だったとしても私みたいな子を育てる自信なんて無くて、だからこそ私は両親を恨んだりはしなかった。そうして私は家族という小さなコミュニティからも疎外されたのだった。それからもずっと、一人ぼっち。

「お前はここで暮らしなさい。人間は、いつかお前を傷つけるから」

 あの日、そう言って私の手を引き、この屋敷に連れてきた叔母に小さく肯いた幼い私はほんとうはこう言いたかったのかもしれなかった。

「叔母さん、私も人間なんだ」

 性器が無くても、親に捨てられても、欧州の城のような屋敷に閉じ込められても、私は人間だ。人間の筈だ。人間でありたかった。わたしもにんげんなんだよ、と吐く息だけで言ってみる。誰も聞いていないけれど。

  広く開けた窓の枠にころんと首をもたれかけさせ、外を見やる。黒い森が外と私を切り離して遠く先まで続いている。黒い森は決して変わらない。黒い森だけが私を守ってくれる。いつか本で読んだ『眠れる森の美女』もこんな森にいたのだろう。風がびゅうと吹いて、目の前の木についていた茶色の実が飛んだ。そっと立ち上がり、冷たい石造りの壁を撫ぜながら階段を降りる。溝に爪が引っかかって、ぴり、という音を立てて痛んだ。

 叔母が私の外出用に用意させたという『赤ずきん』で読んだようなマントを目深にかぶり、玄関の扉を押し開く。ずっと屋敷にいると分からなくなってくるのだけれど、外の世界はもうすっかり秋だった。緑のぬれた匂いが遠ざかり、甘くかわいた風が吹いている。かさ、という音の鳴る地面を踏みしめながら歩く。こうして黒い森を散策しているときだけが、私が私である時間だった。20年近くずっと。

 秋桜が集まって咲いている場所を見つけて上を見上げると、黒い森の隙間から空色が覗いていた。高い空。膝をついてゆっくり体を倒し、土の香る地面に仰向けになった。閉ざされた世界。『ラプンツェル』もこんな気分だったのかと思ってから、私には彼女のような隣の国の王子すら来ないことを思い出して嗤ってしまう。あは、あはは、とかすれた声を上げて笑う。


 秋桜が突然の風に大きく揺れた。


「誰か……いるのか……?」

黒い森の中から声がして、私は飛び起きた。誰かが迷い込んだんだ。村の人かもしれない。狩りか採集をしていて道に迷ったのかもしれない。男にしては少し高い声、女にしては低めの声だった。しかしそんなことは関係ないはずだ。何であれ、誰であれ、見つかってはいけない。マントでしっかりと顔を隠し、土を払うことも忘れて屋敷を目指した。

「決して自分のことを話してはいけないよ」「はい」

「決して知らない人間に触れてはいけないよ」「はい」

「決して知らない人間に見つかってはいけないよ」「はい」

「よし、良い子だね。きっと、お前を『普通』にしてやるからね」

「はい……」

 あの日の叔母と私の声がぐるぐると駆け回る。お前はここで暮らしなさい。人間は、いつかお前を傷つけるから。決して知らない人間に見つかってはいけないよ。お前はここで暮らしなさい。人間は、いつかお前を傷つけるから。決して知らない人間に見つかってはいけないよ……。

「君! 君! 君が『眠れる森の銀色狼』かい!?」

 その声に思わず立ち止まってしまう。逃げろと頭の中で声がするのに、感情が振り向けといっている。後ろに、お前の何かが見つかるとでも言うように。

「ねぇ君! 悪いことはしないから、こちらに来てくれないか!」

 そして私は振り向いてしまう。

 そこには、長い黒髪を風に揺らし、優しく、けれども芯の通ったことが一目で分かる表情で佇む、

 がいた。


 


[醜いあひるは空を飛び へ続く]

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