身代わりで竜神の生贄になった男爵令嬢のジャム作り
硝子町玻璃(火野村志紀)
短編
「ああ、ごめんよスリーズ。君ではなく、ミシェルを選んでしまった僕をどうか赦して欲しい」
蜂蜜色の髪を振り乱し、腰に縋り付いてくる元婚約者をスリーズは静かに見下ろしていた。
スリーズにはこれから死が待ち受けている。悍ましい最期が訪れようとしている。
けれど、まだ十七歳の少女が発狂することなく静かでいられるのは、恐怖よりも悲しみが勝っていたからだ。
竜神。かつて邪悪な魔物を討ち滅ぼし、その亡骸から大地を、その血で海を作った偉大なる神獣たちは今も尚世界を守り続けている。
人々は竜神を信仰しており、魔物との戦いで彼らが残した体の一部を国宝として大切に保管していた。
例えば、スリーズが暮らすエリュイーヌ国は水竜の牙を、そして隣国のヴィエスタ国は木竜の角の一部を所有している。
事件はヴィエスタ国で起こった。
木竜の角が盗まれてしまったのだ。透き通っており、青みがかった緑色をしたそれは、エメラルドを彷彿とさせる美しさを持つ。角を手に入れた者は、誰よりも幸福になれるという言い伝えもあった。
ヴィエスタ国は総力を上げて角と持ち去った犯人を探したが、あっさり発見することが出来た。何と隣国エリュイーヌ国の貴族令嬢であることが判明した。
世界で最も美しいとされている角を手に入れ、世界で最も幸せになりたい。そんな幼稚な理由だった。
勿論、令嬢が直に角を納めていた宝物庫に忍び込んだのではない。ヴィエスタ国の幹部数人を買収し、彼らに盗ませてから自分の下へ送り届けるよう指示したのだ。
角は直ちに、エリュイーヌ国から正式な謝罪の言葉と共に返還された。あとは件の令嬢に然るべき罰を与えてくれればいい。軍事国家であるエリュイーヌ国との衝突を避けるため、ヴィエスタ国は最低限の対応のみを求めた。
だが、事態は最悪の方向へ動き出す。
ヴィエスタ国上空を覆う黒雲の中から、翡翠色の竜が舞い降りた。
長年人々の前に姿を見せて来なかった木竜であった。一時的であっても角を私欲に塗れた人間の手に渡ったことを憤り、悪逆なる盗人を生贄として捧げよと要求した。
それを拒めば、ヴィエスタ国だけではなく、エリュイーヌ国を滅ぼすという宣言つきで。
その情報はすぐにエリュイーヌ国にも齎(もたら)された。
だが、犯人である貴族令嬢をヴィエスタ国に引き渡そうとはしなかった。それは彼女、ミシェル・ドレサンドラが、王族の血を引く公爵家の人間であったからだ。
娘を溺愛していた父親は、他の誰かに罪を着せることを決め、一族の中で反対する者は誰もいなかった。いかに公爵家であろうとそのような計画が発覚すれば、皆の首が刎ねられるかもしれない。誰もがそう思ったが、一国の主はそれを見て見ぬ振りをした。
実は王妃や王女は、ドレサンドラ家から回収されて厳重に保管されていたはずの角を手に取り、口付けまで行っていたのだ。その現場はドレサンドラ家の息がかかっていた者に、しっかりと目撃されていた。
隣国の国宝に触れ、あろうことか口まで付けた。そのことを口外されるのを恐れた国王は、ドレサンドラ家の企みを黙認するどころか密かに助力した。
そして選ばれたのが、男爵家の令嬢であるスリーズだ。
彼女の家は没落に片足を突っ込んでおり、にも拘わらず夫人の浪費癖は治らず、とにかく経済的に苦しい状態だった。
それに目を付けたミシェルの父親は、当主に悪魔の取引を持ちかけた。
報酬と言う名の多額の『慰謝料』と引き換えに、末娘のスリーズにミシェルの身代わりになってもらうという内容だった。
跡継ぎには長男がいる。人見知りで内気な性格でありながら、何度も金使いの荒さに苦言を呈するスリーズを夫人は疎ましく思っていた。ミシェルの父親とは反対に、伴侶を一番愛している当主は、妻に口出しばかりする娘を邪魔に思っていた。
それからはとんとん拍子に事が進んだ。
スリーズにはエミルという侯爵家の令息の婚約者がいたが、婚約は破棄された。
「君のことを愛していたのは本当だよ、スリーズ。でも、今の僕はミシェルを守りたいと思うんだ。誰よりも幸せになりたい。ただそれだけで罪を犯した彼女を、守ってあげたくて」
半笑いで語るエミルだったが、本当はずっと、ずっと前から彼がミシェルと関係を持っていたことをスリーズは知っていた。ミシェルとだけではない、彼は様々な少女や女性と深い仲にあった。
そしてスリーズが竜に捧げられると知ると、婚約破棄を一方的に宣言した。
君を愛していたと言う口で、いつかミシェルと婚約するのだと夢を語る。実際のところエミルとスリーズはそれなりに親しい友人止まりの関係だった。
国も、家族も、婚約者も、誰もスリーズを守ろうとはしない。愛されていなかったからだ。
悲しくて、辛くて、誰もいない裏庭で赤ん坊のように泣いた。暫くすると涙は枯れて、月色の瞳からは何も流れなくなった。
屋敷の中に戻ると、母親が楽しそうに瓶詰めされた果物のジャムたちを捨てるように使用人に命令していた。それらは全てスリーズの手作りだ。昔は作る度に母親が喜んで、パンやマフィンにつけて食べたり、紅茶に入れていた。
また彼女の笑顔が見たい。ただそれだけのために、山ほどの砂糖と果実で作った愛の結晶は、もはや彼女にとってただのゴミでしかなかった。
その日がやって来て、スリーズはヴィエスタ国に引き渡された。家族やエミルの姿はどこにもなく、兵士から二つの国を危機に晒した悪女と呼ばれながら、隣国行きの馬車に押し込められた。
ヴィエスタ国に到着してからのことは、何も聞かされていない。生きたまま心臓を抉り出されるかも、と同乗した兵士がふざけた口調で言う。
「あと、よくありがちなのは処女を捧げた後に殺すってやつか? こんな地味な小娘に竜神様を満足させられるとは思わんが」
「はは、言えてる」
「言えてるじゃねえよ。抱いてから殺すなんざ悪趣味でしかねえな」
怒りを抑えたような声が馬車の上から聞こえたかと思うと、突然停まった。何事かと一人の兵士が降りた途端、悲鳴が上がって何も聞こえなくなった。
スリーズは身を縮めた。悲しみが忘れさせてくれた恐怖が再び舞い戻る。寒くもないのに体の震えが止まらない。
かち、かち、かち。歯を鳴らしていると、兵士ではない男が馬車に乗り込んで来た。
ふわりと風の匂いがする紫がかった銀色の髪。不機嫌そうに細められた、幸福の象徴であるエメラルドグリーンの双眸。スリーズは一瞬恐怖を忘れて男を見入っていた。
その視線が煩わしいと思ったのか、男はスリーズを睨み付けた。それだけで恐ろしくて堪らなくなって、スリーズは強く瞼を瞑った。
「な、何だお前」
「テメェらがちんたらしてるから迎えに来てやったんだろうが」
「は……」
「|これ(・・)貰って行くぞ」
男はスリーズを脇に抱き抱えて、馬車から出て行こうとする。
兵士たちはそれを止めようとしたが、窓ガラスを破って中に入り込んだ無数の茨(いばら)の蔦に巻き付かれ、体の自由を奪われていた。
植物を自在に操る能力。それを持つ存在が目の前にいる。兵士の顔からは血の気が引き、男への敵意がみるみるうちに萎んでいく。
男は兵士たちを一瞥すると、今度こそ馬車を降りた。
一見何もない空間を指で弾くと、ぐにゃりと風景が歪んで人が通れる程度の穴が現れた。草木など殆ど生えていない荒野だというのに、男が開けた穴の先では強い生命を感じさせる緑が生い茂っていた。
スリーズを脇に抱えたまま、向こう側の世界に入っていくと、空間は何事もなかったかのように閉じていく。
「テメェ、あのクソ女の身代わりにされたんだろ」
「……え?」
「俺の角を触ってんなら、テメェにも俺の神気が移っているはずだ。だが、それがねえってことはテメェは偽者ってことになる」
青々と生い茂った昏(くら)い森の中、スリーズを地面に降ろした男の体が変化する。
樹々を薙ぎ倒す銀色の巨体。太陽の光を遮るほどの両翼。二対の角はどちらも欠けており、けれど根本は未だにエメラルドグリーンの輝きを放っていた。
角と同じ色の瞳が呆然とするスリーズを睨み付ける。
「本物が来たらさっさと森の養分にしてやるつもりだったが、これはこれで面白ぇ貰いモンをしたと思えばいい」
その言葉を紡ぐ声は、どこか愉快げだった。
「自分で世話をしないのなら、さっさと家に帰してしまえばいいのに、木竜様はマジで人使いが荒いニャ」
森の最奥にある小さな神殿が、スリーズの新たな住処だった。
柔らかいベッドと食事をするためのテーブルがある部屋にスリーズを案内したのは、猫耳と尻尾を生やした少女だ。ソーマという木竜の眷属である。ぶつぶつ言いながら果物を運んでくる。
「これでも食べるニャ。この森は木竜様が作った神域で、ここで採れた果物を食べるだけで生きていけるようになってる……と思うニャ」
「私を……殺さないの?」
「だってお前さん、木竜様の角を盗んだ奴じゃないニャろ? だったら何で連れて来たんだって話になるけどニャ」
木竜は人間の姿に変化して神殿の奥に行ったきり、戻って来ない。これからどうしようと、スリーズが立ち尽くしていたところにソーマが現れたのである。
皿に載せられて運ばれた果物は、どれも新鮮で鮮やかな色をしている。生の果物を食べるなんて久しぶりのことだった。一番最初に手に取ったのは真っ赤に実った苺(フレーズ)だった。蔕(へた)を取ってからルビー色の果肉を口に入れる。じゅわ、と溢れる甘酸っぱい汁。緊張で渇いていた喉を潤してくれた。
「もっとあるニャ。お前さんに勝手に死なれたら困るから食うニャ」
葡萄(レザン)、桃(ペーシュ)、林檎(ポム)、無花果(フィグ)。ソーマに言われるがまま、どんどん口に運んでいく。不思議と飽きが来ない。ソーマが横で見守る中、皿の上の果実を次々と頬張る。
「美味しい……」
「お前さん、どっからどう見ても普通の小娘ニャ。どうして角を盗んだ女の身代わりで木竜様の生贄になったニャ? 死ぬのが怖くないニャ?」
ソーマの素朴な問いかけに、スリーズは言葉が出て来なかった。
国にそうしろと命じられたから。誰もスリーズを守ってくれなかったから。そう説明すればいいのに、声の代わりに空気が喉から漏れるだけだった。
ソーマは答えを聞くまで、ずっと待っているらしい。じっと琥珀色の瞳でスリーズを見詰めている。
「……きっと、死んでしまいたかったの」
「何でニャ? ニャーは死にたいなんて一度も考えたことがないニャ。死ぬのは怖いことニャ」
「うん……そうだね。でもね、生きるのが嫌になってしまったから……」
嫌だと泣いて、喚いて、訴えて。それが通り、言葉など一度も交わしたことのない令嬢の罪を背負うことを放棄出来たとして、スリーズの帰る場所なんてどこにもなかった。
だったら、こんな人生など終わらせた方がいい。自らの破滅を少しでも望む自分がいたことを、スリーズは自覚していた。
「あ、木竜様ニャ」
不機嫌な表情で部屋に入ってきた木竜の腕の中には、白い花が山程抱えられていた。
それをスリーズの頭の上に全て落すと。まるで白い滝のようだ。残されたのは漂う芳香と、床に撒き散らされた白い花。
翠の瞳が困惑するスリーズを見下ろし、舌打ちが少女の小さな体を震わせた。
主の奇行に、ソーマが呆れたように溜め息をつく。スリーズの髪に引っ掛かった花の茎を取ってあげている。
「木竜様何をしてるニャ。スリーズがびっくりしとるニャ」
「ビビらせて何がわりいんだよ。そいつは生贄として連れてこられたんだ。酷い扱いをされてナンボだろ」
木竜の言葉を否定することは出来なかった。殺されないだけ、有りがたく思えと言われているようだ。スリーズは込み上げてきた恐怖に、息を詰まらせた。
だが、木竜はそれ以上は何もしようとしなかった。無言で部屋を出て行く。
糸が切れたようにその場に座り込むスリーズに、ソーマが「大丈夫ニャ?」と声をかける。
「うちのご主人様、竜神の中でも一番若くてちょい性格に難ありニャ。今お花かたづけるニャ」
そう言ってソーマが床に落ちた花を拾い始めるので、我に返ったスリーズもそれを手伝う。
優しい花の香りのせいか、胸の中を満たしていた不安感が徐々に薄れていった。
スリーズは木竜の神域で、穏やかな日々を過ごすようになった。
昼間は森を散策したり、神殿の地下にある巨大な図書室で読書に耽る。夜は窓から見える星々を眺め、いつの間にか眠ってしまっている。常にソーマがついているおかげで寂しくはない。
食事は果物やナッツばかりだが、飽きたと騒いだソーマは湖で小魚を獲ってきたり、鳥を捕まえてそれを焼くようになった。一方スリーズは全く飽きておらず、黙々と果実を食べていた。
「スリーズは果物が食べたくて食べたくて仕方なかったにゃ?」
焼き魚を骨ごとばりばりと食べていたソーマに聞かれて、スリーズは目を丸くした。
「この森はちょいと特別ニャ」
「うん、木竜様の神域だって言ってたね」
「そうもそうニャけど、残ってたもう片方の角もボキンと折って、それで『食べたいものが自在に出てくる』魔法を森全体にかけたんだニャ」
すると、スリーズが来てからというものの、森には様々な果物が実るようになったらしい。
「けど勿体ない気もするニャ。肝心の木竜様の食べたいものは、出なかったらしいニャ」
「何が食べたかったの?」
「それは分からんニャ。でも『意味がないことをしちまった』って呟いてたニャ」
木竜が食べたくて、食べられないもの。それはどんなものなのだろうか。スリーズが想像していると、何かが頭の上から降って来た。
花の香りがする。目の前を見上げると、憮然とした表情の木竜が立っていた。足元には先日と同じ白い花が散乱している。また彼がスリーズの頭に花を散らしたようだ。
ソーマが憤慨した様子で花を拾っている。
「まーたやってるニャ! これ誰が片付けると思ってるニャ!」
「テメェだろ」
「ニャニャニャ……」
素っ気なく言う主にふるふると体を震わせながら、それでもソーマは花を拾い集めていく。その間も木竜はじっとスリーズを見詰めている。何かを望んでいるかのようだった。
スリーズが彼にかけるべき言葉を探しているうちに、彼はどこかに行ってしまった。
こんな風に、木竜はどこからか摘んで来た花をスリーズの頭に落としていく。スリーズというより、ソーマに対する嫌がらせのように思えて、一度「ソーマさんが困ってしまいます」と勇気を振り絞って抗議してみると、次から花の量が増えた。
まるで怒られて拗ねている子供だ。そう思うと、彼の行動が違う観点から見えるようになった。
嫌がらせのために、スリーズの頭に花を注いでいるわけではないとしたら。その逆だとしたら。気になったスリーズは、地下の図書室で見付けた植物図鑑の頁をぱらぱらと捲った。ソーマは魚の図鑑を読んで目を輝かせている。
いつも木竜は白い花ばかりを選んで持ってくる。それと同じものが描かれている頁を見付けた。葉や茎ごと乾燥させて煎じて飲むと、精神を落ち着かせてくれる作用があるらしい。
花言葉は『悲しまないで』。
「スリーズ何やってるニャ? 果物をあっためるなんて普通やらないニャ。不味くなるだけニャ」
「これはね、煮詰めているんだよ」
森で採れた苺を、大量の砂糖とレモン汁で煮込んでいく。そうすると、甘酸っぱい香りが小さなキッチンに充満していく。初めは訝しんでいたソーマも、その香りを嗅ぐと尻尾をゆらゆら揺らし始めた。
味見をしてもらおうかと考えたが、彼女はきっと猫なので熱いものは苦手だろう。完成したら食べさせようと思う。
「すごい甘い香りがするニャ。これが人間界での食べ方ニャ?」
「ジャムって言うの。パンにつけて食べると、とても美味しいの」
「最高ニャ。あ、これでいいニャ? ちょうどいい瓶が一つあったニャ」
ジャムを入れる容器が欲しい。ソーマに頼んでいたそれは、すぐに見付かったらしい。彼女の言う通り本当にちょうどいい大きさだった。
「……?」
「どうしたニャ?」
「これどこにあったの?」
「木竜様の部屋にあったものニャ。探していたらあったから取って来たニャ」
「そ、そんなことをしても大丈夫……?」
「持って行っていいか聞いたら『好きにしろ』って本読みながら言われたニャ」
つまり、木竜にちゃんと確認しないで持って来てしまったらしい。スリーズが不安に思っていると、廊下から走る音が聞こえて来た。
「おいソーマ! |あれ(・・)を持って行きやがったのか!?」
切羽詰まった表情で木竜がキッチンに入って来た。やはり大丈夫ではなかったらしい。ソーマも予想外だったようで、耳と尻尾をぴんと立ててスリーズの背後に隠れてしまった。
「何怒ってるニャ!? あんなのただのガラスの容れ物じゃないのかニャ!?」
「いいからとっとと返せ。何に使う気だ」
「あ、あの、申し訳ありません。ソーマさんに持って来て欲しいと、お願いしたのは私なんです。すぐにお返ししますので……」
「……テメェが?」
美しい翠の瞳で睨まれる。ただこのままだとソーマが叱られてしまう。自分は罰を受けていいが、彼女は巻き込みたくなかった。
「ジャムを作ろうとしていたんです」
「………………」
「けれど、それを容れる瓶がなかったので……」
「……もういい」
木竜の表情が穏やかになる。彼の口から漏れた溜め息は呆れや怒りではなく、安堵が込められているようにスリーズには思えた。
首を傾げるスリーズに木竜が「……使うなら使え」と柔い声で言う。そして立ち去ろうとする彼をスリーズは呼び止めた。
「ま、待ってください」
「あ?」
「甘いものはお好きですか?」
「……好きでも嫌いでもねえ」
「だったら、私のジャムを食べていただけませんか? 果物を砂糖で煮詰めたものなんです。甘酸っぱくてとっても美味しいんですよ」
木竜からの返答はなかった。ただ、無言でじっとスリーズを見据えている。こちらの意図を探る眼差しだった。
「……私、ジャムを作ることが好きだったんです。だから久しぶりに作ってみたんですけど、思ったよりも量が多くなってしまったので」
嘘だ。本当は不器用ながらも、自分を案じてくれていた彼へのお礼のつもりだった。彼に捧げられるものなど何もないスリーズが自らの命以外に渡せるものと言えば、こうやって作るジャムくらいだ。
この世界は不思議だ。焼きたてのパンが食べたいと願うと、いつの間にかテーブルの上にほかほかと温かいパンが置かれていた。
試しに何もつけずに食べてみると、ふかふかの生地はほんのり優しい味がした。きっとジャムに合うはずだ。
赤い宝石をスプーンで掬って、パンにたっぷり塗り付ける。
「どうぞ、木竜様」
スリーズがジャムを塗ったパンを差し出すと、木竜は何も言わずにそれを頬張った。美味いとも不味いとも言わない。黙々と食べ続ける姿を眺めていると、睨まれたあとに「テメェも食えよ」と言われた。言葉に甘えることにする。
砂糖で煮込んだ苺はとろりとしていて、甘みが強くなっている。少し甘く作り過ぎたかもしれない。そう思っている間にも、木竜は新しいパンにジャムを勝手に塗っている。気に入ってくれたようだ。
「なあ、お前」
「何でしょうか?」
「他にもジャム作れんのか?」
「はい、簡単に作れます。あ……でも容れ物がないと」
「ソーマに買わせておく。そうすりゃいくらでも作れんだろ」
スリーズは心の中でソーマに謝った。
「あれはどこに行けば売ってんだ?」
「……ご存知ではなかったんですか?」
「あ? 俺が知ってるわけねえだろ」
「でも、この瓶……」
ジャム専用の容器だ。それもスリーズが愛用していたものとよく似ている。ジャム作りに没頭していたスリーズに、父親が大量に買い与えたのだ。スリーズのためではなく、スリーズのジャムをよく食べていた妻のために過ぎなかったが。
スリーズが作ったジャムの味は、他の貴族からも褒められていた。譲って欲しいと言われて瓶ごと渡すことも多かった。色々な種類を作っても、すぐになくなってしまっていた。だから一個くらい見ず知らずの誰かにあげてしまっても、気付かれることがなかった。
五年前、少し酸味が強い林檎でジャムを作り終え、瓶に詰めていた時だった。キッチンの窓から小さな子供が庭にいるのが見えた。
真冬で雪がちらついているのにも拘わらず、子供は薄着をしていた。あれでは風邪を引いてしまうと、スリーズは慌ててキッチンを飛び出して彼を屋敷の中に入れようとした。
子供はそれを嫌がり、たまたま外を歩いていたら甘い匂いがしたので来てみただけだと言った。ジャムの香りに釣られて忍び込んだと分かり、親に言うか迷って結局言わなかった。自分のジャムが褒められている気がしたからだ。
スリーズはキッチンに戻ると、林檎ジャムが入った瓶を子供に渡した。パンに付けて食べてもいいし、温かい紅茶に入れてもいい。そう説明すると、子供は無表情のまま頷いて走り去った。
「この国加齢臭がスゲーニャ……」
色々なジャムを食べたいのなら、そのために瓶をたくさん買って来い。主からそう言われて、ソーマはエリュイーヌ国にやって来ていた。耳と尻尾は魔法で消して、人間の振りをしている。
主には困ったものだと思う。確かにスリーズの作ってくれたジャムは美味しい。木竜に食べさせる前に味見をしたそれは、普通に苺よりも甘くて蕩けそうだった。もっと食べたかったが、その殆どを木竜が食べてしまった。
そう、木竜もスリーズのジャムをもっと食べたくて仕方ないのだ。それを一言も言わずにソーマに命令するのだから質が悪い。
あんなもの、どこで買っても同じだろうが、せっかくだからスリーズの育った国の瓶がいい。そう思って来てみれば、様子がおかしい。王都の雰囲気が暗いというか、ピリピリしている。
スリーズを生贄としてヴィエスタ国に差し出したのだから、この国は平和になったはずだ。訝しむソーマだったが、その答えは広間で配られている新聞に載っていた。
この国の王族が急激に老い始めたのだという。若くて美しかった王妃も、可憐で愛らしかった王女も髪が真っ白になり、皺だらけの老婆のような姿になってしまった。
謎の現象は、いくつかの貴族の家でも起こったらしい。その中には王族の血を引き、絶世の美女とされる公爵令嬢とその父親も含まれているそうな。
「大変だニャ~」
不思議なのは、父娘が近々処刑されるということだった。老婆となった令嬢が、干からびてミイラのような姿に変わり果てた実父に必死に助けを求める光景は、悍ましかったと記事に書かれている。令嬢には婚約者がいたが、その男も老化に襲われ、自らの姿に絶望した彼は自死しようとしたが失敗。今は寝たきりの状態で、死ぬ時を待ち続けている。
少し前に娘が失踪した男爵家では、毒殺事件があったらしい。食事に出されていたサラダの中に猛毒の草が含まれており、それを食べた夫婦は数時間苦しんだ後に死亡した。犯人は未だに見付かっていない。
エリュイーヌ国では、木竜の怒りはまだ収まっておらず、これは呪いではないかと囁かれている。
そりゃないニャとソーマは思う。主は人間たちに騙される振りをしてスリーズを連れて来たわけだが、真犯人を生贄として要求していない。角だってヴィエスタ国にぽんと返してしまった。あんな魔力の塊、持ち帰った方がいいと思うのだが。
「ま~ニャーはスリーズが来てくれてよかったと思うニャが」
本当に角を盗んだ女は、利己的な性格で父親に強請れば全て解決すると思っている我儘女だったらしい。そんな奴の世話役なんて御免である。礼儀正しくて優しいスリーズでよかった。ジャムも美味しいし。
けれど、一つだけスリーズに不満がある。
ソーマは彼女の笑顔をまだ見たことがないのだ。
林檎のジャムを作ってみたい。スリーズの細やかな願いはすぐに叶えられることとなった。
木竜が神殿から出て行ったかと思うと、すぐに大量の林檎を抱えて戻って来たのだ。
「これだけあると作り過ぎてしまうんですけれど……」
「そうなったら、俺が全部食う」
甘いものは好きでも嫌いでもないと言っていたが、実は大好きだったのだろう。スリーズが新しい種類のジャムを作る度に、すぐ食べてしまう。ソーマが食べる分をもっと残して欲しいと頼んではいるのだが、あまり意味はない。
無表情でジャムをたっぷり塗ったパンを頬張る姿は、何だか栗鼠(りす)のようで可愛らしい。
「……ふふっ」
「何がおかしいんだよ」
「あなたが小さな子供のように思えてしまって」
「ガキだろうよ」
冗談のつもりで言った言葉が、肯定されてしまった。
「俺は木竜で一番若くてな。まだ四万ちょい超えた程度だ」
「それで一番お若い?」
「人間で言うところの十五、六歳だ」
あくまで人間年齢に換算すれば、ということだがスリーズと同じか、年下になるらしい。意外だと思うと同時に、彼への親しみが強くなる。
ジャム、もっと作ってあげなければ。スリーズが決意を新たにしていると、木竜は面白くなさそうな表情を浮かべていた。
「ようやく笑ったかと思えば、俺のことをガキ扱いしやがって」
「あ……申し訳ありません」
「別にいい。……お前になら構わねえよ」
木竜はほんの僅かに口角を上げて言った。それはスリーズが初めて見る彼の笑みだった。
もっと外の世界を見るといい。他の竜神に言われて降り立った人間の世界は、あまりいい景色ではなかった。自然を好き勝手荒らして自分たちの住処にしてしまった連中に、やるせなさを感じた。
うっかり力を解放してしまわないよう、子供の姿になって街を歩く。灰色の空から落ちる雪の粒が、やけに冷たく感じた。
果実の香りとも少し違う匂いに釣られ、どこかの屋敷の庭で忍び込んでいた。すると、一人の少女が慌てた様子でこちらに走って来た。
「風邪を引いちゃうよ。家の中に入ってあったまろう?」
こんな子供を屋敷に入れれば、咎められるのは自分だと少女は気付いていなかった。食い物目当てで忍び込んだと分かれば、軽蔑して離れていく。そう思っていたが、少女は嬉しそうに林檎が入った瓶を差し出した。
「林檎で作ったジャムだよ。パンにたっぷり塗ったり、あったかい紅茶に入れると美味しいの」
言われた通りにすると、今まで食べたことのない味がした。あっという間になくなり、もう一度食べたいと思っても叶わなかった。残った角一本を犠牲にして、くだらない魔法を神域に使っても駄目だった。
ただジャムが食べたいのではない。あの少女がいなければ意味がないのだと気付いたのは、すぐのことだった。
我ながらどうしようもない男だと思う。言葉で慰める方法も知らないし、素直にジャムの感想を言うことすら儘ならない。酷い男に捕まってしまったなと、彼女に同情してしまう。
そんな男でも、あの女の笑顔を蘇らせることは出来るらしい。世界一の幸福は与えられないだろうが、彼女を不幸にするものは全て壊して、消してみせる。
身代わりで竜神の生贄になった男爵令嬢のジャム作り 硝子町玻璃(火野村志紀) @haripoppoo
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