もう一度だけで構わないから
赤いボールペンを買おう。そう思って行ったコンビニエンスストアはいつも通りの頭にこびりつくメロディーで迎え撃ったくせに黒色と青色のボールペンしかなくて、必要のない肉まんだけを持って帰ってくる。ただいま、十日前より静かになった家の中の空気を吸わないようにするみたいに洗面所まで早足。姉ちゃんの薄紫の透明な歯ブラシを見つけて、止めていた息を吐きだしてしまった。手を洗って、うがいをする。意味もなく顔を洗って目をあげた先にあった窓硝子と蒼天の間をアオスジアゲハが飛んでいて、それを姉ちゃんだと思ってしまった俺は姉のもう死んでいるを期待しているのかもしれなかった。白い柔らかな脚は傷一つなくて女子高生を象徴していたのにどこかいつでも退屈そうだった姉。アンニュイには死後の景色が似合う。だから期待は少しだけ現実味を帯びていて白になりはしないのだろう。死に封じ込めて永遠にする。私、あれになりたいの、夏の色を背負って飛びたいの、アオスジアゲハになりたいんだよ。姉の声で巡るフレーズ。空を刺す細い指。記憶は薄れていくのと同時に理想へと昇華されていく。
姉が失踪して十日が経った。人の住む気配はその人がいなくなっても残るものなのだと俺はつい今まで知らなかった、と思いつく。蔦が絡まるような静けさで姉ちゃんの気配は部屋に染みていた。壁が姉の感情を一つ残らず吸い取っていて、いなくなった今、それを全部吐き出しているのかもしれない。あの人のこともきっと、吸い込んでいる。ふと思い出して喉の当たりが締め付けられる思いがした、心は胸でも頭でもなくて喉にあったりする。姉の部屋に入ってあの日からそのままになっているセーラー服と学生鞄を指でなぞる。埃がふわりと舞って、時間は人間がつくったくせに人間に残酷だ、埃が残る。姉はいない。姉のいない十日を、当たり前に過ごしてしまっている自分が不思議でならないよ。もう一度、姉を奪ったあの人のことを思い出して、何かに刺されたみたいだ。
姉が失踪したのは、姉の親友が自殺したからだ。
姉を奪ったあの人。降り注ぐ事実をひとつひとつ丁寧に掬い上げて確かめていく。掬い上げて確認してまた空気の中のどこかへ溶かす。親友が死んで、姉が家族のものに戻った気がして、俺は嬉しかったの。違う。違う、そうじゃない。それは間違っている。糸を少しずつ手繰り寄せていく。
俺は、親友のことを好きな姉のことを好きだったのかもしれなかった。
親友について話すときにほんのりと頬を赤く染める姉ちゃんを見る、そうだ、そんな時俺はいつも指先の細胞までがふわりと熱くなって泡立つのを感じていた。空を見てアオスジアゲハを羨む、あの時も退屈そうな表情をのせたシャープな顔に胸が苦しかった、何かを言いたかった。親友の家に行ってくるね、俺の方を振り向きさえしないで家を出ていく細い身体に触れたかった。引き留めて、笑ってほしかった。俺の大嫌いな種類の香水を、親友が好きだと言ったからなんて理由だけで振りまく姉ちゃんの自分勝手な唇をたまらなく。
好きだった。
不思議と親友を嫉妬しなかったのは、あの人の話をする姉ちゃんが好きだったから。
あの人の話をして、微笑む、姉ちゃんが好きだったから。そうだったんだ。
姉の部屋のクローゼットに入った、親友にもらったのだろう、どこの雑貨屋にも売っていそうな芳香剤を取り出す。ふたを開けて、鼻を近づける、やっぱり嫌いな香りだ、でもその香りは姉ちゃんの服の香りと一緒だ、姉ちゃんの香りだ、むせかえったのと思い出してしまったのとで、ぶわりと涙があふれる。
予報では言っていなかった雨が、降り始める。
窓を閉める、余計にその香りががこもって涙が止まらなくなる。
玄関の扉が開く音がする。
一階にいた母の悲鳴が、姉の名前を読んでいた。一泊遅れて嬉し泣きが二階まで立ち上ってくる。姉の、ごめん、という声に心臓が跳ねる。
姉ちゃん、もう一度だけで構わないから。
俺の方だけを向いて、微笑んでよ。
青絶 Yukari Kousaka @YKousaka
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