青絶

Yukari Kousaka

この柔らかな安寧の底で

 テレビから細々と女性キャスターの声が流れてくる。膝を抱いた少女はそれを頭の上に聞く。白い膝だ。傷も痣も無い生まれたてのような膝。傷つけることも傷つけられることも知らない膝。そんな膝を持った少女がBGMに成り下がった誰かの死亡通知を聞き流す。毎日のように聞こえる〇名死亡、の音楽。脳内を巡る旋律は気持ち悪い。お涙頂戴の曲に多いスロービート。心のどこにも訴えかけないよ。今日もどこかで、エンパイアステートビルや近所のマンションから、沢山の人が降ってこの世界を赤に染めるのだろう。血しぶき。人間たちはそれらから身を守る術さえ持たない。手にしていた筈の傘は雨降りの朝に投げ捨ててしまった。折れた傘は元に戻らない。雨降りの朝は嫌い。晴れの朝も嫌い。雲一つない空は息の根を止めるから。我儘だよ。カーテンが揺らいで鋭い日の光が少女の背を刻む。まだ羽を持たない少女は呻く。飛ぶことはできない。ここは箱で、箱には天井があるから。箱の中で朽ちてゆく。抱えて羽を生やしたくて叫ぶ。叫ぶことのできない少年がナイフを持って街に出る。赤の他人が液晶の中で死ぬ。BGMが増える。酸素の無駄遣い。五月蠅いだけで音楽と呼ぶことも出来ない代物が電波に乗って人を襲う。

 昨日死んだのは少女の親友だった。その死はBGMにならないと少女は思っていた。その命は尊いものだと思っていた。

 分からなくなっていた。何もかも。ひとの命の価値さえも。

 少女は呻く。

 呻いて、思考を過去へと巻き戻してゆく。


              *


 緑と白い光が雪崩れ込んできて目が痛いよ。あの日、電車はいつもと変わらない道をいつもと同じくらい楽しそうに走っていた。いつもと同じくらい美しい彼女といつもと同じくらい退屈そうな私を乗せて。美しい君が着る紺のセーラー服は君をさらに美しく見せていて退屈そうな私が着るそれは私をより退屈そうに見せていた、と前に座ってこちらを見ているおばあさんの気持ちになってみる。退屈な私のすること。「空が碧いね」私の気持ちを見た様に親友が言う。見たのだろう。くくくっと白い歯を見せて嗤ったから。人生を楽しむ術を知っている彼女の、退屈な冗談。学校では彼女、人気者なんだよこんな冗談でも笑ってくれる友人がたくさんいるのよとおばあさんに叫びたくなった。美しい彼女が退屈な私の為に美しい友人との時間を失っているのは不思議な気分だ。嬉しさと哀しさが同棲しています。

 でも確かに親友の言う通りで空は碧かった。いつでもこの世界は驚くほど美しかったなと夕立のように思う。その考えは体を冷やしてくれる心地の良い雨のように私の中に染みていく。素直に「そうだね」と言えて少しだけ徳を積んだ気になる私はやっぱり凡庸。夕立は彼女で、私は彼女にはなれない。

 黒い鞄を膝の上に抱いて、少し、何も考えない。ただ緑と白と蒼の雪崩だけを見つめてやり過ごす。親友の頭が肩に載って何も考えていなかったということは吹き飛ぶ。「眠たいよ」少女を象徴することだって不可能じゃない小さな欠伸を漏らす彼女。

 もし私の伝記を誰かが書くとしたら省略してしまうだろう三十分間だった。ありふれている。五分に一度は私と彼女の様な女子高生が生まれているかもしれないね。その三十分間は確かに、私の人生においての何のメタファーにもならないと思うよ。この三十分間に私の人生が体現されてしまうなら私はすぐに死のうと思うけれど。でもこの三十分間が無くなっても私の人生はジェンガになるだろう。ガラガラ。

「退屈そうだね」彼女がまた白い歯を見せて嗤う。

「退屈かもね」私も彼女の頭に頭を重ねて頭蓋骨の共鳴で会話する。脊椎に自分の声が響いてくすぐったい。

「じゃあすごく面白い話をしよう」

「それはすごく面白い」

 私の返答に美しい彼女はむくれる。むくれても美しい人がいるって人生不公平だななんて場違いなこと。

「まだ何も言っていないのに」

 細く開いた窓から水の香りがするこの季節の空気が流れてきて彼女を包む。洗い立てのキュウリを齧った時の青い粒子が肺に満ちて彼女の言葉を青色にする。

「君がすごく面白いと言ったらすごく面白くなる物語が、あってもいいかもしれない」

 美しい人には美しい物語を創ることが出来ると聞いたことがある。だから君にも出来ても良い事かもしれない。

「ありがとう…でも、ちゃんと聞いてね?」

 私は静かに頷いて先を促した。

「あのね。男の人が一人いて、その人は小さな箱を持っていた。小包、という名前がぴったりとくるほど小さな箱。それを守って頂戴って言われていたの。知らない人に。中に何が入っていたと思う?」「それがとても面白い話?」「質問に答えて」「中に何が入っていたのか?」「そう」「何だろう…お金?」「退屈な答」「宝の地図?」「ちょっと面白くなったけど違う」「じゃあ何が入っていたの」

 

「何もなかったのよ」


 その時の彼女の美しさはぞっとする程だった。えくぼ。光の雪崩のせいで目元がよく見えない。透けている霊。光が差した時だけ一列に並ぶ埃で人型が浮かび上がるような。消えそうな何か。

「何も…」「そう。何もなかったの。そこには男の中身が入っていたのね。男はそれをとても大きな怪物から守らなくてはならなかったのに、気を抜いた隙に奪われてしまったのよ。馬鹿ね」「とても大きな怪物?」「そう」「ドラゴンみたいな?」「もう、メタファーに決まってるじゃない。退屈ね」「男はどうなったのよ」

 彼女が消えないためだけに会話を続けた。綻んでいる場所を手探りで探し当てるみたい。

「それは誰も知らない…どうなったと思う?」

 彼女の輪郭が溶けてしまわないように手で触れたまま、退屈な答を探す。

「死んでしまった」

 彼女はゆっくりと此方側に戻ってくる。此方側。もしかしたら此方も彼方も無かったのかもしれない。でも彼女の輪郭は少なくとも私が触れられる程には回復していた。複素数平面じゃない。数直線上に彼女と私は戻ってきた。実体。

「ある意味ではそうとも言えるかもね。中身がない。それは確かに死だ。でも少し違う。この世界では少なくとも男は息を続けていた。男は多分…」

「多分?」

「皮だけになった。でも男には中身が必要だった。男は皮そのものを中身にしたのよ。鳥皮だけを味わうみたいに」

 そんな人生は恐怖だと不意に思った。中身を捨てて、皮を中身にして生きていくなんて。きっと私には耐えられない。どうして?虚無だから。私は希望よりも絶望よりも虚無が怖かった。

「怖いよ」

「私も怖い」

親友がぼそりと呟いた。私の心臓はゆっくりと死に絶えた。

「●●も?」

「私だって


 記憶が濁って。溢れて零れて零れて滲んで滲んで滲んで白くなって白くなって白くなって白くなって



《ホワイアウト》





 分かるよと、言えない。少女は傷ついたことも傷つけられたこともなかったから知らなかった。無責任な大人は無責任なことしか教えてこなかったし。私たちは誰のことも分かることなんて出来ないの。分かり合おうなんて、それ、無責任なんですよ。自分は自分で主観でしか見ることしかできないから。他人に理解されること、他人を理解することなんて出来ないから。「あなたを一番理解してくれるのは誰ですか?」そんな人いません。いたら自殺しないよ。いたら小説なんて生まれないよ。歌なんて生まれないよ。小説なんて読まなくても歌なんて聴かなくても私たちの心が全部想像できてしまうなら。だから少女は傷ついているのに。退屈だった日々を懐かしく思っているのに。傷つきたい人なんてどこにもいないのに!


 親友の死因は虚無。


 美しくて退屈を知らなくて生きることをいつもほんの少し楽しみにしているのだと思われていた親友はそんな神みたいな子じゃなかった。ただの一人の少女でしかなかったの。少女と同じように体の中に穴を持っていた。どの色も通して流してしまう穴。染まらない。黒に染まってくれるなら親友は自殺なんてせずに少女に語っただろう。夕焼け空に心臓を投げただろう。涙を流して愛のない世界に絶望する振りしただろう。それならそれで一つの幸福の形だっただろう。

 少女も他の誰もと同じように親友のことを何も知らなかったの。少女が笑っている間、何を考えていたのか。何を思っていたのか。あのお話の意味は何だったのか。少女は何一つ知らないまま親友を失ってしまったの。親友もとても大きな怪物から中身を守っていたのに、奪われてしまったの。それで虚無なの。分からない。

 あの日親友に感じた少しの違和感は虚無だったのだ。虚無。この世界の中心に在るもので。人間には無い筈のもの。それは死に神のように親友を虫食んでいて。無い筈のものだからそれは生と背反するもので。だから死んだんです。死んでしまったんです。

 親友は一枚の紙を机の上に残して近所のマンションの窓から降った。 


『絶望できたなら

 私はこうじゃなかったんだ

 心臓に何もない気がして

 黒いものでもあったなら

 私はこうじゃなかったんだ

 君と

 もう少しだけ

 生きたかったよ』


 少女は呻く。終わりなんて来ない世界。いつも驚くほど美しかった世界。安寧。この柔らかな安寧。終わってしまったならまだ幸福だったのに。カーテンはゆるく揺れ続けて、日の光は少女の背を刺し続けて。テレビは親友の名前を呼び続けて。

 親友の命が尊いものだと今思えないのは。

 少女自身のせいなのだ。世界のせいなのだ。人間のせいなのだ。

 分かり合えないから。

 分かるよと、言えないから。

 命が尊いものだということも分からないの。

 

 静かに少女は立ち上がった。

 その背中には静かな翼が生えていた。

 手には果物ナイフを持っていた。

 それから。

 この柔らかな安寧の、底へ、飛び出していった。 


 

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