瞳に映る愛情の対象(2/8)

丁寧でかしこまった口調に冗談の気配はなく、幸いなことに近くには誰もいなかった。それでも、倫子は顔を赤らめ、独り身を見透かされた言動に腹が立って、目線を厳しくした。小柄で痩身な男は、長らく手入れをしていないヘアスタイルとくたびれた服装で、特徴的な三角形の目をしていた。白目が目立たない、爬虫類に似た三角の目だ。それから、倫子の断りの返事をあっけなく受け取り、三角形の目を歪めた苦笑いでカウンターに背を向けた。


同じ日の夕方、新人のアルバイトが倫子への電話を取次いだ。「店長」を名指しにする電話は客からのクレームが大半で、今回もそうした用件だろうと、倫子は毅然とコードレスホンを耳にあてた。


もしもし、店長の羽山でございます。


あっ、どうも……ワカタと申します。今日、名刺入れを取りにうかがった者です。急にお時間をいただこうとして失礼しました。


そこで一拍置いたものの、ワカタは倫子の反応を待たずに言葉を続ける。


今夜九時から放送する「いけいけ!あるでんて」という番組……ぼくが書いてるものなんで、もし、家にいたら見てください。それじゃ。


逃げ去るように通話は一方的に切れた。何が言いたいのか理解できなかったが、言葉遣いの印象から、ワカタがいい加減な男ではなく、むしろ、真面目でまともな部類に入る人間らしいことが分かった。


仕事以外に他人との交流がほとんどない倫子にとって、テレビは幼い頃からの親友だ。お笑いタレントのバラエティ番組で声を出して笑うことがストレス解消にもなっている。ワカタが発した「いけいけ!あるでんて」はお気に入りのひとつで、「あるでんて」という人気漫才コンビがホストを勤め、何でもありのハチャメチャな笑いとドキュメンタリー風のささやかな感動コーナーをウリにしている。昨年の秋に深夜帯からゴールデンタイムに引っ越し、いまや、テレビ局の看板番組に成長していた。コーナーを次々に変えていくなか、「ドキュメンタリー風のささやかな感動」をおざなりにしない制作者のこだわりを、倫子はしっかり感じ取っている。


その日、外で夕食をすませて帰宅すると、番組がちょうど始まる時間だった。倫子はリモコンでテレビのスイッチを入れて、音声のボリュームを上げた。ワカタの伝言をことさら意識しているわけではないが、突然、たくさんの足を持つ虫が胸の内側を這う感覚に囚われた。「番組を書く」がどういうことなのかは分からない。しかし、彼のルックスをぼんやり思い出しながら、いつもと変わらずに笑い、ドキュメンタリーコーナーで束の間の感動を覚えると、胸の内側の虫はいつのまにか消えていた。


放送から三日後の十月のハッピーマンデーに、ワカタは倫子の店に再びやって来た。


天気予報のとおり、お昼前には空が暗くなり、傘立てを抱えた倫子が店の入り口に立つと、ワカタの姿があった。両手のふさがった彼女は一瞬驚いた表情を見せた後で、「いらっしゃいませ」と普通に挨拶し、「番組、見ましたよー」と小さく言って目線を外した。すると、ワカタは年季の入ったブランドもののバッグから一枚のハガキを取り出して、バツが悪そうに頭を掻いた。


これ、番組の観覧券です。次の収録分です。来週の土曜日ですが、もし時間に余裕があったら観に来ませんか?……ぼくはスタジオのどこかにいますし、とっておきの新コーナーも始めるんです。


少しだけ伸びた髭を人差し指と親指で撫でながら、ワカタはゆっくり告げて、親しみめいた笑顔を倫子に向けた。




番組の観覧にどんな服を着ていくか――水滴を残さずに、倫子は乾いたバスタオルで体を拭いていく。


いままでの人生で、テレビ番組をスタジオで観るなんて考えたこともなかったし、誰かに誘われることもなかった。そもそも、仕事以外で人前に出ることは苦手だ。休日は家で気ままにチャンネルをザッピングしてのんびりしたい――それでも、突然の誘いに応じたのは、「番組を生で観てほしい」という純真な気持ちをワカタの瞳の中に読み取ったから。胸の内側でときどき動く虫も気になってしかたない。


(3/8へ続く)

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