短篇小説「瞳に映る愛情の対象」
トオルKOTAK
瞳に映る愛情の対象(1/8)
羽山倫子はバスタブの中でお腹の肉をつまむ。
愛情不足……きっと、そうだ。わたしのカラダがこんなに太くなったのは身内の愛が欠けていたから。両親が家で話をちゃんと聞いてくれたら、ポテトチップスを放り込む口が、学校の出来事や将来の夢を語るものになったのに――自分が親になるほどの年齢になって、倫子はそう思った。
何でも受け入れる舌と歯。せめて、丈夫なカラダに生んでくれた親に感謝しよう。「ありがとう」が皮肉に聞こえても、できることなら伝えてみたい、言ってみたい――浴室の天井に張り付いた、ビー玉みたいな滴を見つめて、倫子はため息をつく。
倫子が幼稚園児のとき、父親は、彼女の三つ年上の兄を連れて家を出た。公園の砂場で一緒に遊んだ兄の姿は水彩画みたいにぼやけ、いまはモスグリーンのベンチが記憶に残るだけ。
リンちゃん、ママと留守番、頼むね。
父親は兄の手を引き、狭い玄関で靴を履きながら言った。まるで、映画を観に行くみたいにさりげなく。あらかじめ、荷物をどこかに送っていたのだろう。
夕飯の支度がてら、母親は「二人は週末の旅行に出かけたのよ」と告げた。明日の献立を伝える程度の軽い口ぶりで。
旅行? あんな格好で? わたしたちを置いて?……幼な心に首をかしげた倫子の答案用紙は「週末→一週間→一カ月→半年……」と添削され、答え合わせをないがしろにしたまま、「男家族」は永久に消えた。
今頃、二人はどこで何をしているだろう? 兄はわたしのことを覚えているだろうか?
心不全で亡くなった母が三回忌を迎えること、あまりにも唐突な別離だったこと――家族として、それくらいは知らせておきたい。二人が、もしどこかで生きているのなら。
倫子はバスタブの中で、もう一度、お腹の肉をつまむ。茹でた巨大なソーセージに似た脂肪は感覚がなく、とうの昔に自分のものではないようだ。
三十年の人生のうち、大きなカラダで得したことはまったくないが、体育の授業や運動会で自尊心を削られる以外に損したこともない。上場企業の正社員だった母親は夜遅くまで働いて残業代を稼いでは、父親の不在をごまかすように、「放任」という自由を娘に与えた。お小遣いの向き先はコンビニの飲食棚で、ひとりぼっちの夜にテレビを見ながら頬張るお菓子が倫子に親友を紹介した。親友の名前は「脂肪」――身長がなければ、「地味で小柄なおデブちゃん」で済んだはずが、頑丈な骨格が太く長くなって、どこでも人目につく「やたら大きい女の人」になってしまった。
お湯を目一杯張ったバスタブに体を沈めれば、いったいどれほどのお湯があふれ出るだろう。そうやって何かの大発見をした学者がいたな――脈絡のない想いを行き来させから、倫子は、今日これから着る服を考えた。
学生時代に始めたコーヒーショップでの仕事が、いまの倫子の「生活パートナー」だ。整体師育成の専門学校を一年で辞め、コーヒーショップを経営する企業の社員になって、それほど多くの時間を費やさずに女性店長に昇格した。
大きなカラダのせいで店内を軽やかに行き交うことはできないものの、誠実な接客態度が本部の上役にも認められ、一国一城を守る主としての生きがいを感じている。
「大きい女の人」への好奇の目は学生からアルバイト時代も倫子にまとわりつき、華奢で愛くるしく、異性にもてはやされる同僚に嫉妬することもあったが、店舗の責任者になってからはそうした思いが薄れた。やがて、結婚適齢期を過ぎ、恋人を望む気持ちもなくなり、自分自身の誓約書にこう記した。
――美味しいモノを食べ、誰にも迷惑かけず、好きに生きていく。わたしのカラダとココロはわたしだけのもの――
そして、ある日、その誓約書の文言を試すように、「ワカタ」という名の男が現れた。平日の午前中、倫子のコーヒーショップに、ひとりふらりと。
テレビ番組の制作を仕事にするワカタはテーブル席に名刺入れを置き忘れ、再来店のついでに倫子のプライベートの時間をいきなり要求した。デザートをオーダーするみたいな調子で、「良かったら、お時間いただけませんか」と。
(2/8へ続く)
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