第31話 モデラシオンな僕

 金曜日に医師が僕の全快を告げ、週明けからは通学ができると言われた。

 食欲も戻り、体が軽くなっていくのがわかる。

 いいなぁ〜健康って。

 しみじみ思うよ。


 月曜日、いつも通り日菜と登校する。

 久しぶりの満員電車で、もみくちゃにされて、へとへとになってしまった。

 満員電車には、どれだけ乗っても慣れそうにない。


 登校できるようになったとはいえ、まだ病み上がりなんだ。用心のため、放課後はまっすぐ家に帰り、神宮司部長にも中崎さんにも会わない日々が続いた。


 通学をするようになって初めての木曜日、部長から電話があった。


「体の具合はどう?」


「はい。もう大丈夫です」


「そう。よかったわ。食欲は?」


「すっかり元通りです」


「安心したわ。実は、食事に誘いたいと思っていたの」


「食事?」


「ええ。オーナーが、ガレージセールの成功をとても喜んでいて、ご馳走したいと言っているの」


「そんな……悪いですよ」


「いいえ。私にまかされたの。お願い。私の顔を立てると思って」


「わかりました。では、お願いします」


「じゃあ、急だけど、明後日の夕方はどうかしら?」


 夕方といえば、ディナーじゃないか。

 でも、僕らは高校生だ。分不相応な店に連れていかれることもないだろう。


「はい。大丈夫です」


「お店はあとで教えるから」


 という部長の言葉で、電話は終わった。


 ところがだ……。


 金曜日の昼になっても、夕方になっても連絡が来ない。

 土曜日の午前中も。午後になっても。

 時計が四時を指しても連絡は来なかった。


「聞き間違えたかなぁ。来週の間違いだったとか?」


 いや、この前の木曜日に“明後日”って言われたんだ。

 間違いようがない。


 再び時計を見る。

 秒針が刻々と時を刻む。


「うーん?」


 中止だろうか?

 

 そのときだ。


 ―― ピピッ


 携帯の呼び出し音が鳴った。

 部長だ。


「もしもし」


「連絡遅れてごめんなさい。これからそちらへ行くから」


 と言って、電話は終わった。


 こっちに来るって……。


「部長の家からここまで結構あるぞ」


 家のすぐそばで、車の止まる音がした。


 ―― ピンポーン


 インターフォンが鳴り、


「慎ちゃーん」


 母さんが僕を呼んだ。

 僕はあわてて外に出ようとしたが、


「ちょとこれじゃな」


 クローゼットからジャケットを取り出す。


「シャツ一枚じゃまずいかも?」


 そんな気がする。


「いってきます」


 母さんに声をかけて玄関を出ると、


「お迎えに参りました」


 運転手は僕を車まで案内し、ドアを開けた。

 奥の席に部長がいて、僕はその隣に座った。


「待たせてしまってごめんなさい。急用ができてしまって。これでも無理をしてここまで来たの」


 急用。何があったのだろうか? 僕になど想像もつかないことに違いない。


「それより。ここまで来るのは大変じゃありませんでしたか?」


 部長の家からここに来るには、首都高を使っても40分はかかる。


「ええ。でも、お店はこの近くなの」


「この近く?」


 確かに、この近くにはいい店がある。

 でも……。僕の知らない店なんだろうか?


 僕らを乗せた車は、部長の来た道をさらに先に行く形で進み、あるマンションの前に止まった。


「ここの二階よ」


 僕が店の看板を見ると、


Moderationモデラシオン


 とあった。


「いらっしゃいませ」


 小柄で品の良い女性に迎えられる。


 キッチンはオープン式で、正面から入るとシェフが調理する姿を目にすることができる。シェフは痩せた男だ。

 店は夫婦二人で切り盛りをしている。僕らを迎えてくれたのが奥さんで、シェフがご主人だという。

 ガラス張りの正面に沿って、テーブルが並んでいる。入口から右手奥が壁、左手の端に窓がある。穏やかなオレンジ色の照明が、店内を温かく照らしていた。


 僕らは窓際の席に案内された。


「フランス家庭料理のお店なの。坂下君フランス帰りだから、お口に合うかしら?」


「僕はそんなに食べ歩いてませんよ」


「そう? きっと気に入ってくれるわ。美味しいのよ。値段のわりに」


 そういったって、高校生がディナーに来るような店じゃない。

 ジャケットを着てきてよかったよ。


 あらためて部長を見る。

 藍色のワンピースを着ていた。レースのスタンドカラーが、細くて長い首に良く似合う。肩と五分丈の袖がチュールで覆われている。露出が少ない服を涼しげに着こなす様は、この人ならではだ。

 この人は、シチュエーションに合わせて服を変える。

 僕の家に来るときは、無地のおとなしめの服。ホビーフェスティバルでは緋色のワンピース。木村と会っていた時は、ブラウスにスカート。


 でも……この人は冷たい青がよく似合う。

 端正な横顔、陶器のように白い肌。

 濃い藍色が、それらをいっそう引き立たせる。


 メニューが運ばれてきた。


「アラカルトで頼みましょう。コースじゃなくて気軽カジュアルに。坂下君は何か食べたいものはある? あなたはフランスに住んでいたことがあるからわかるでしょ?」


「はい。でも、今日はお任せします」


「わかったわ。じゃあ、飲み物から……。ここはね。ワインも美味しいんですって。飲めると楽しいのでしょうけど、私たちは駄目ね。残念だけど。ペリエとミネラルウォーター。どちらがいい?」


「ミネラルウォーターをお願いします」


「私も。 まずはサラダとオードブルの盛り合わせと……」


 慣れた様子で、部長が注文をする。


「坂下君は、フランスで暮らしていた頃いろいろ周ったの?」


「イルド・フランスくらいですね。父が忙しかったもので。母一人では僕らを連れて遠出することができなかったんです。僕らは、まだ小さかったですからね。父の休暇を使って、パリ近郊の町に旅行に行きました」


 僕はメニューを見ながら話を続けた。


「でも、カルチェラタン周辺は好きです。母と一緒でしたが、何回見ても飽きませんでした」


 ミネラルウォーターがグラスに注がれ、やがてスープが運ばれてきた。


「オニオングラタンスープですね」


「そう。家庭料理の定番ね」


 そして、サラダ、オードブルが運ばれ、僕らはそれを口にする。


Moderationモデラシオン


 と言って、部長が小さく笑う。


「偶然だけど坂下君にピッタリね」


「それは……」


 僕は憮然とする。


「あら? 気を悪くした? 素敵な店名でしょ? リラクゼーションサロンでもよく使われるのよ」


「まぁ、個人的に……。その、緩和とか、緩やか、ほどよいって意味ですよね?」


 イタリア語の『moderatoモデラート』と同じ意味だけど、イタリア語の方が知られている。音楽記号で使われているからね。


「それのどこが嫌なの?」


「なんか、お前は“ほどほどだ”って、言われているような気がするんですよ」


「そんなこと?」


 部長が笑った。


「僕は嫌なんですよ。なんとなく」


 ほどほどの自分。

 冷めた自分。


「でもね。『中庸』という意味もあるのよ」


「ええ」


「『中庸』はね。西洋でも、東洋でも大切な徳として尊重されてきたわ」


 中庸。

 常に偏ることなのない態度。

 大切な徳。確かにその通りだ。

 でも……。

 のめり込めない自分。夢中になれない自分。

 勉強もバドミントンもレース編みも……。

 

 “好き”。


 不確かな掴みどころのない感情。

 それにのめり込むことができず、どれも一歩引いた態度で接していた。


 そんな状態で、生きる甲斐のようなものが得られるのだろうか。

 僕は、常にそこから遠ざかってはいないか。


「貴方って、つまらないことを気にするのね」


「そうですね」

 

「中庸ってね。中途半端という意味じゃないわ。その都度平常心で判断を下すことなの。貴方にはそれができていると思うわ。……お説教になってしまったわね。今日は貴方の慰労会なのに」


 やがて、深皿のような鍋が運ばれてきて、女主人がテーブルの上で蓋を開けた。湯気と美味しそうな匂いが漂い、僕は思わず鍋をのぞき込んだ。


「子羊肉のナヴァラン風煮込みですね!」


 細かく刻んだ子羊肉に、蕪、ニンジン、玉ねぎ、トマト、グリンピース、さやいんげん、ジャガイモ、トマト……春の野菜をふんだんに入れた煮込み料理だ。

 蕪を入れると“ナヴァラン風”と呼ばれるらしい。

 

「懐かしいなぁ」

 

「よかったわ。喜んでくれて。でも、まずは食べてみないと」


「そうですね」


 僕らは料理を各々の皿に取り分けると、食べ始めた。


「美味しい!」


 二人が一斉に声をあげる。


 この料理は母さんもよく作ったし、レストランでも食べた。でも、これは本当に美味しい。


 それほど間を置かず次の料理が運ばれる。


「カスレですね」


 カスレはカルカソンヌの郷土料理だ。

 カルカソンヌは、フランス南部のオクシタニー地域圏ラングドック地方にある都市の名前だ。


 カスレは白いんげん豆を、豚や鴨ソーセージ生ハムなどの肉と一緒に煮込む、いわゆるカルカソンヌのお袋さんの味だ。

 

「美味しいですね。肉も豆もよく煮えています」


 『Mderationほどよく

 

 でも、研ぎ澄まされた“ほどよさ”だ。

 

 『子羊の煮込みナヴァラン風』は春の料理に相応しく、野菜の彩りが美しい。

 

 『カスレ』は煮崩れしない豆と、艶良く飴色に煮込まれた肉が食欲をそそる。


 想像もできないほどの技法が施されているんだ。

 

 僕が料理の美味しさに目を白黒させている様子を、部長が興味深そうに眺めていることに気づいた。


「美味しいものっていいわね」


 部長が静かに言う。


 そして、少し間を置いて、


「美味しいものの前には、みんな正直になるから」


 と言った。


「……」


 僕は僅かに緊張するが、


「つまらないこと言っちゃったわね。さあ、まだあるから頑張って食べてね。オーナーは好きなだけ食べていいって言っていたわ」


 と笑った。


「はい!」


 美味しいものの前だ。些細なことを気にするのをやめよう。


 僕らはその後も食べ続けた。イカに肉や野菜を詰めて煮込んだもの。貝殻に乗った帆立のグラタン……。


 “もうこれ以上食べられない!!”と言いながら、デザートを待っていた時だ。

 

「ねぇ。坂下君。前から気になっていたんだけど」


「え?」


「貴方は、なぜガレージセールの件を引き受けたのかしら?」


 部長が僕に問いかけてきた。


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