第30話 花園にて
僕は38.5度の熱を出し寝込んでしまった。
母さんも日菜もひどく心配していたが、
「うつすといけないから……」
日菜を部屋に入れさせなかった。
「ふみゅー。お兄ちゃ~ん」
弱々しい日菜の声をドア越しに聞きながら、僕はいつしか眠りに入って行った。
発熱してから二日間は、体が重く食欲もなかったけれど、三日目になってようやくお粥を食べられるまでに回復した。
母さんが気遣いながら土鍋を持ってくる。
風邪なんて滅多にひかないから、余計心配なんだろう。
「日菜は?」
「学校へ行っているわ。先生に頼まれた用事で、帰りが少し遅くなるって。でも、うつす心配はないってお医者様が仰っていたから、帰ってきたらすぐに会えるわ。喜ぶわね。日菜」
母さんが嬉しそうに言う。
「そうだね……」
猶予期間がもうすぐ終わる。
日菜と顔を合わせなくてはならない。
こんな気持ちを抱いたまま、どんな顔をして日菜に会えばいいのだろうか。
「母さん」
「何?」
日菜の両親はどんな人なんだろう。
「あのね……」
「何?」
日菜の本当の両親。
それを問いただして、どうなるというのだろうか?
日菜はまだ十二歳なんだ。いずれ明らかになるにせよ、もっと先の方がいい。
「ごちそうさま」
言葉を呑み込み、空になった土鍋を母さんへ渡す。
「食欲が戻ってよかった。お医者さんも2~3日様子を見たら登校してもいいって仰っていたわ。あのね。神宮司さんからもお電話があったの。お見舞いに来たいって。でも、まだ具合が悪かったからお断りしたの」
「そうなんだ。心配かけちゃったね」
「ええ。ガレージセールのことで無理させたんじゃないかって、気にしてらしたわ」
「それは悪いことをしたな」
そうなんだ。
本当に申し訳ない。
病気の理由はそんなことじゃないんだ。
そのとき、インターフォンが鳴った。
「ちょっとまってね」
母さんが玄関に行き、すぐに戻ってきた。
「誰?」
「フランちゃんよ。お見舞いに来たの。入れていい?」
「えっ? ちょっと待ってもらって」
そう言って、僕は慌ててパジャマの上にパーカーを羽織った。
女の子がお見舞いに来るんだ。あまり恥ずかしい恰好でいたくない。
鏡を見る。少しやつれた顔をしてるけど、これならまぁいいだろう。
「慎ちゃん。入ってもらっていい?」
「どうぞ」
「お兄様」
フランは部屋へ入ると、母さんがベッドの横に置いた椅子に座った。
手には小さな花束がある。スイートピーにピンクのカーネーション、カスミソウの花束だ。
「心配しました。でも、回復していると聞いて安心しましたわ」
いつもの弾けるような明るさがない。
こんな子にまで、僕は心配をかけてしまったんだ。
「ありがとう。フラン」
「日菜ちゃんも心配していましたわよ。お兄様と会えないって……。お兄様、日菜ちゃんのことを本当に大切に思っているんですね」
「妹だからね」
フランが目を伏せて俯くと、長い睫毛が見える。本当にフランス人形みたいだ。
「どうかした?」
「あ、あの……」
フランがもじもじとしている。
「なに?」
「あ……あの……」
フランがさらにもじもじとする。
どうしたのだろうか?
フランは顔を上げると、
「あ、あの……お兄様は、やっぱり日菜ちゃんがお好きなんですか?」
と言った。
――どきり。
心臓から、そんな音が聞こえてきそうだ。
「そ、それは……妹だからね」
「あの……日菜ちゃんはとてもいい子だから、やっぱりお兄様は日菜ちゃんみたいな子がお好きなのかと思ったんです」
……ああそういうこと。
秘かに胸をなでおろす。
「そんな。フランだっていい子だよ」
フランが小さく頭を振ると、はちみつ色の巻き毛が可憐に揺れた。
「日菜ちゃんは、私がレース編みで追い越しても、ぜんぜん気にしないんです。初めは、そういうこと気にしない子なんだと思っていたけど、私が上達すると一緒に喜んでくれて……私だったら、とてもそんな気持ちになれないって思いました」
僕は過去にあった、日菜とフランの
あのときは、日菜にフランス語の詩の朗読をとられたフランが、日菜に嫌がらせをしていたんだ。
「そうだね。確かに日菜はいい子だけど、フランにはフランのいいところがあるよ」
フランは自分の行為を恥じて、改めようとしている。そんな姿に僕は微笑ましい気持ちになった。
「でも、私、お兄様に好きになってもらいたいんです。だから、これからは、日菜ちゃんを見習おうと思って!」
「えっ!?」
僕はあっけにとられた。
そんな! まだ中学生なのに!?
好きな男好みになろうって? それで日菜を見習おうっていうの!?
なに時代遅れなこと言ってんの?
でも、無下にはできない。
せっかくフランはいい子になろうとしているんだ。
「でもね」
僕はフランに語り掛ける。
「この前のガレージセールのとき、編むのが遅い日菜をフランが助けてくれただろ? あれは本当に助かったよ。フランも喜んでやってくれたし」
フランの顔がぱっと明るくなった。
「お兄様!」
フランの勿忘草の瞳が、うるうるとしてきた。
えっ? 泣くの? 困る。
僕はうろたえた。
その時だ。
“コホンッ!”
咳払いの音に気付いて、ドアを見ると、
「部長! 神宮司部長!」
神宮司部長が立っていた。針のような鋭い鋭い視線を僕に向けている。
「お姉さま!」
フランがドアへ目を向けると、瞳から鋭さは影を潜め、優しく僕らに微笑みかけた。
「まぁ、フランちゃんも来ていたのね」
そして、僕の方に向くと、
「よくなったって、お母様から伺って安心したわ。」
と言って、ピンクの薔薇とピンクのガーベラの花束を持って入ってきた。
にっこりと笑った顔がなぜか怖い。
「は、はぁ」
しどろもどろに返事をする。
病み上がりなんですよ? 勘弁してください!
「お兄ちゃん!」
振り返ると、日菜がドアのところに立っていた。
くるりと丸い目が、大きく見開かれている。
手にはピンクのチューリップとピンクのトルコキキョウのブーケを持っている。
目を潤ませて、立ちすくんでいるかと思ったら、花束を放り出し、あっという間にベッドへ駆け寄り、僕に抱き着きついた。
「お兄ちゃん! よかった! 心配したのよ」
日菜の。日菜の小さな肩が震え、温かい涙が僕の手に触れる。
栗色の髪を撫でると、髪がさらりと指の間を通り抜けた。
こんなにかわいい日菜を、どうして遠ざけたりしたんだろうか?
日菜は僕の妹だ。どんなことがあっても。それは決して変わらないんだ。
三日ぶりの対面。
「ふぇ~ん。 日菜ちゃん~。お兄様……」
日菜の涙つられて、フランも泣きながら僕に抱き着いた。
「ふみゅ~~。お兄ちゃ~ん」
「ふぇ~~ん。お兄様~」
少女たちの体温が伝わり、僕の心が温かい何かで満たされていく。
ーー孤独。
長い間、誰からも顧みらることなく、自分さえ気づかず、手当てもせずに放っておいた、心の傷。
それが癒されていく。
「まぁ……。日菜ちゃんの花束が……」
部長がカーペットの上に投げ出された花束を拾った。慈愛溢れる女神のように。
「お母さまから花瓶をお借りしてくるわ」
しばらくすると、花瓶を手に戻って来た。
「ピンクづくしね。こんなに可愛らしい花が揃って、花園みたい。よかったわね。坂下君?」
花を生けながら僕を凝視する。
女神の面影はすでになく、いつも部長がそこに立っていた。
口調は優しいのに、視線が冷たい。“目が笑っていない” ってこういうことなんだ。
男一人に、女の子二人が抱き着いて泣いているこの有様を、部長はどんな気持ちで見ているのか?
揺れるピンクの花々。泣きじゃくる少女たち。
僕は熱がぶり返すことを恐れた。
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