第32話 ガラスの扉

「坂下君はなぜ引き受けたの? 私は無理強いをしたつもりはないわ。それはわかっていたわよね?」


 部長質問をしてきた。


「うーん」


 僕は考え込んだ。


「面白そうだったから。……興味があったってことですね。何かをやり遂げたかったんです」


「図案描きから一歩前進ね。気分はどう?」


「いいですね。なんかこう、やったぞ! って、感じです!」


「それは良かったわ」


 部長が弾けるように笑った。

 こんな笑顔は初めて見る。

 だが、ふっと、眉をひそめると、


「それにしても……私のが売れ残るなんて……」


 と言った。


 やっぱり出たか。その話。

 美食の魔法が解けた僕らは現実に引き戻される。

 現世の僕らは裁判官と被告だ。異世界に転生したいよ。


「坂下君。貴方、私に容赦なかったわね?」


「そ、そりゃ……」


 あの奥さんたちの作品は悪くない。悪くないが、まだまだだ。

 そこに部長の、あの精緻なドイリーがあらわれたら、たまったもんじゃない。


「でもね……坂下君が、私を自分サイドの人間と考えてくれた……って。嬉しかったのよ」


「僕サイド?」


「貴方。身内に厳しそうだから」


 僕は日菜を思い浮かべた。フランとのことで、苛められていた日菜に忍耐を強いてしまったのだ。


「そ、そんな……先輩のドイリーは売れると思ったんですよ。残ってしまいましたけど……」


「貴方の読みは正しかったわ。ガレージセールが終わった後、オーナーのところに電話があって、売れ残ったドイリーを譲って欲しいって言ってきたそうよ。あの場では手持ちがなかったけれど、諦めきれなかったって」


「そうだったんですか……」


 ほっと胸をなでおろす。

 僕が部長に引け目を感じる必要はなくなったんだ。


「それにしても……購入者のお得感を煽るのは成功だったわね」


「ええ。でも、場所の影響を甘く見ていました」


「でも、頑張ってくれたわ。貴方が判断を下して、采配を振ったのよ。だから私たちは動くことができた。私を一時的に不利な状況に置くことも立派な決断なのよ。貴方は売上に関して責任を背負って、それを果たしたのよ」


「そんな……大げさですよ。それと、古澤さんのこと……。たまたま上手くいきましたが、やはり反省すべきでしょう」


 今回の最大のミッションは、【穏便にカタを付けること】なのだから。


「そうね。古澤さんはどうしてあんな行動にでたのかしら? でも、わからないでもないわ。貴方を気に入った理由」


「僕を気に入った理由? あの状況で、僕の何を気に入るっていうんですか?」


 僕はミニ怪獣のような魔王を思い出す。

 失礼な態度をとったのに、セールの宣伝をしてくれたんだ。

 未だに彼女の気持ちを理解できずにいる。


「貴方には理念があった。その理念に賛同してくださったんだわ」


「それは……価格は適正でしたから、値引きしなかっただけです。 理念だなんて大袈裟なものじゃありません」


「それと、“心” よね。製作者たちの気持ちを大切にしたかったのよね? 嫌いじゃないわ。貴方のそういうところ。いいえ。好きだわ」


「えっ……!!」


 好きって……!?


「そ、そんな……」


 あたふたとする僕に、頓着することなく部長が話を続ける。


「古澤さんだけじゃないわ。父も貴方を気にかけているのよ」


「部長のお父さん?」


「貴方のことをよく覚えていたわ」


「僕のことですか?」


「ええ。新商品お披露目パーティーで、コンパニオンの女性がタチの悪い酔っ払いに絡まれていたとき、貴方が上手くかわしてあげたって言っていたわ」


 そんなことあったかな?

 確かに親族に酒癖の悪い人が何人かいるけど、覚えがない。


「そのときね、あなたは誰の気分を害することがなく、丸く収めたそうよ」


 そ、そんな……。

 天下の神宮司グループの会長に、そんなつまらない姿を覚えられるなんて……。

 しかも親族の痴態まで……。

 もう少しマシな事を記憶に残して欲しい。

 一族の恥だ。


「私の言葉が腑に落ちないみたいね。どうして貴方って、自分に自信がもてないのかしら?」


「僕はまだ、ガラスの扉の前に立っているようなものなんです。目の前にきらきらした未来が見えるけど、扉はまだ開かれていなくて、まだ一歩も前に進んでいない。来年の今頃までには、やりたいことを見つけたいと思っています」


「一年間ね?」


「はい!」


「この前も言ったけど、相談には乗るからね」


 部長が僕の話を聞いてくれている。僕を探るためではなく、僕を知るために。

 僕が将来のことを考えるようになったのは、この人のおかげかもしれない。


「あ、そうだ部長」


 僕は、小さなセロファンの包みを渡した。


「まぁ! 山内さんのブレスレットね」


「はい。山内さんのブレスレットは好評だったんですが、これだけが売れ残りまた」


「そうね……。これは身に着ける人を選ぶわね。それを私に?」


「ええ。山内さんから売ってもらいました」


 それは濃紺とチャコールのビーズを組み合わせたものだ。メタリックな素材感がある。山内さんの作品の中では、これが一番の出来だったけど、部長の言葉通り身に着ける人を選ぶ複雑な色合いだ。


「これでコンプリートね。売れ残ったドイリーとブレスレットもカタが付いたわ」


「そういうつもりじゃ……」


 素晴らしい作品は、相応しい人の元に行くべきだと思ったんだ。


 部長がブレスレットに手を通す。


「どう?」


 手首を僕の前でかざした。


「……」


 似合う。

 メタリックな鈍い青が、白い手首で冷たく光る。

 でも、僕にはそれを口にすることができなかった。


「甲斐性のない人ね。それなのに、こんなプレゼントなんかして……なんだか飲みたい気分だわ」


「飲めるんですか?」


「まさか! 飲んだことなんてないわよ! そうやって、いつも気づかないふりをするのね。フランちゃんのことも」


「フラン? あんな子どもの言葉を真に受けるんですか?」


「本当に鈍感なのかしら? あるいはその方が楽だから?」


「飲んだんですか? 僕に隠れて?」


「飲んでないわよ! 隠れてって、どこに隠れるのよ?」


 拗ねた姿が、かわいく見える。

 不思議だ。



 僕らは車で帰路に就いた。


「ごちそうさまでした」


 礼を言って車を降りようとしたとき、僕の肩にかける手がある。


「部長?」


 僕の顔のすぐ近くに部長の唇があった。

 そしてそれは……。


 ――僕の唇に触れた。


 ざわっ……。


 突風が吹き上げ木々を揺らす。


「待っているわ。一年後」


 部長の声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。


「今日はありがとうございました」


 僕の声は、木立のざわめきにかき消された。




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