final 贈り物と永遠
約束通り、ニアはすぐに話を取り付けた。長期戦になると思われたけれど、特に何の問題もなく、あっさりと承諾された。
ニアが迅速に話を進めたのは、おそらくシキの決心を揺るがさないためだったのだろう。シキはというと、ニアの言いつけ通り、おかしな気を起こすような気配はなかった。相変わらず彼女に会いに行っているようだったけれど、常識の範囲内に収めていたし、仕事に関しても文句も言わずにこなしていたので、言うことはなかった。
平穏な日々が続いていた。
一時期、連続していた『羽あり』事件もここのところ音沙汰はなく、同胞たちが減ることもなくなった。仲間がいなくなるというのは、仕事の面にも影響するけれど、それだけでなく、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。その手の情が薄いように見えるニアでさえ、そう思うのだから、何事もなく落ち着いた日常を迎えられることは願ってもないことだろう。
こんな平穏な日々が続けばいいのに。が、そんな日々が長くは続かないことも知っていた。
デスクワークをしていたニアのもとに、慌てたように駆けてくる足音が聞こえてきた。ただならぬ雰囲気を帯びたその音は、不吉な何かを引き連れてやってきているように思えた。
「逃げられました!」
ノックもなく押し入るように入ってきた人物は、何の挨拶もなく、慌てたように言葉を発した。
「何ですか、急に」
「逃げられました!」
ニアの苦言を気にすることなく————気にする余裕もないかのように、その人物は同じ言葉を繰り返した。
ニアはまず、そんな彼を落ち着かせることに専念する。それどころではない雰囲気は彼からビシビシと伝わってきたけれど、こんな調子では話を聞くにも聞けないと、ニアは圧でもって従わせた。
「で、何があったんですか?」
落ち着いた頃合いを見計らって声を掛ける。
「やつがいなくなりました……」
「やつ? いなくなったって……まさか?!」
報告にやってきた彼は、こめかみから汗を垂らしながら小さく頷いた。
管理体制はどうなっているのかとか、その時見張りをしていたのは誰だったのかと犯人探しをするようなことは、ニアはしない。そんなことにさく頭も時間も持ち合わせていなかった。
詳細を訊くこともせず、ニアは勢い任せに「シキは?!」と口にしていた。
「シキは今どこに!?」
「シキなら用があると言って出かけましたけど……」
なぜ今シキの名前が出てくるのかと、首を傾げる。
何も知らない彼は、逃げ出した者を差し置いて、シキの話を始めるニアを訝しい気持ちで見つめていた。シキに探しに行かせようという魂胆なのだろうか。けれど、少し青ざめて見える顔に、ただごとではない雰囲気に、そうではないのだと悟る。
「やはり、狙いはシキだったのか……!」と舌打ちまじりに溢しながら、ニアはバタバタと忙しなく外出の準備を始めた。
「手のあいている者に声をかけて、早急に彼を探し出してください」
ニアはそれだけ言うと、早急にこの場を後にした。
***
莉李は紫希との待ち合わせ場所に向かっていた。
先日、お昼ご飯を共にした際、紫希は自分の連絡先を莉李に渡していた。また誘いたいから、という名目で。
連絡すべきかどうかという迷いもなく、莉李はその日のうちにお礼を伝えるべく紫希に連絡していた。紫希からの返事もすぐにきて、その際にこれまた早速お誘いがあったのだ。一緒に行きたいお店があるという。
自分のことを考えてくれているような言葉に、莉李は顔が綻ぶのを感じていた。
待ち合わせ場所へと向かう足取りは軽い。
早く紫希に会いたい一心で、莉李の足は前へと進んでいた。
ふと、風に吹かれて運ばれる花びらが目に入る。桃色のそれに、つい最近、桜の開花宣言がなされていたことを思い出す。
立ち止まり顔を上げれば、大きな桜の木が莉李を見下ろしていた。桜並木というものではなく、ただ一本大きな木があるだけ。けれど、存在感は十分だった。————とはいえ、今の今まで気づいていなかったわけだけれど。
見ればちらほら蕾が開いている。そう遠くない未来に、桜の見頃を迎えるだろう。
満開の桜を想像しながら、莉李はそれと同時に紫希の顔を思い浮かべていた。一緒にお花見に行けないだろうかと。今日会った時に誘ってみようか、なんてことを考える。
緊張の中に楽しみが生まれて、口元が緩む。
先日、紫希が話していたことも気にはなっていたけれど、こうして誘ってくれていることに、マイナス思考は打ち消されていた。遊ばれていなければの話だが。
莉李は再び歩き出した。
時間には余裕があるので、急く気持ちを抑え、まだ咲き始めたばかりの桜を眺めながら歩みを進める。一緒に行くなら、どこがいいだろうかと、そんなことを考えながら。
再び歩き始めてすぐのことだった。突然、莉李の身体をすっぽりと覆うように影ができた。太陽は高く昇っていて、近くには建物もない。大きな影をつくる大きな木も、莉李の目の前にあるだけで、背後に背負うように位置している太陽では、影は進行方向に向かって前に伸びるようにできるはず。
不思議に思い、振り返ろうとした時、背中に衝撃が走った。あまりに突然のことで、何が起きたのかわからない。体も思うように動かせずにいた。
ただ、近くで声がしたような気がする。
「
重たい金属音が擦れる音とともに響いた声は、莉李の耳には完全には届かなかった。
何を言われたのかも、実際に本当に声がしたのかどうかもわからないまま、目の前が暗くなった。
***
ニアはシキのもとへと急いでいた。
ゼノンが逃げ出したと聞いてすぐ、足はシキのもとに向いていた。
安心するのは早かったようだ、と自分自身に悪態をつく。
シキを探すのは容易い。気配をたどればいいだけ。たどることのできる気配があるということは、それすなわち、シキが消えていないということを意味する。
シキは建物を背に一人で立っていた。誰かを待っているのか、スマホを片手に嬉しそうな表情を浮かべている。大方、彼女を待っているのだろう、と表情から察する。
とりあえず、無事で良かったと胸を撫で下ろした。
「シキ」
「ニア? どうしたの、こんなところで」
「ちょっと状況が変わりまして……すぐに戻ってもらえますか?」
「え、やだよ。これからデートなのに」
「そんな悠長なことを言っている場合では……」
ニアの言葉を遮るように、サイレンが響いた。近くはない。どこか遠くで、けれどシキたちの耳には届くような距離。
二人は黙ったまま、音のする方へと視線を投げた。刹那、シキが驚いたように目を見開く。ニアもまた同じような表情をしていた。
シキの目は、一つの光を追っていた。白く輝く光は、真っ直ぐにシキのもとに飛び込んでくる。シキはその光を受けるように、手を前に出した。
「これって……」
その光は、彼らには馴染みのあるものだった。他の————人間には見えない光。
彼らはそれを見ることができるだけでなく、個別のものとして認識できる。
シキもニアも、白い光を纏うそれの正体を知っていた。そしてそれが誰のものなのかも……
シキは崩れるように膝をついた。心なしか、肩が震えている。
俯いていて、表情は伺えない。ただ大事そうに、まるで壊れやすいものを丁寧に扱うように、白い光を抱き寄せていた。
いろいろなことが一気に押し寄せ、ニアは状況を把握するのに必死だった。
塞ぎ込むシキに声はかけられなかった。いつにも増して、シキの心情を推し測ることができない。
震える肩に手を添えてみる。触れた先から振動は伝わってくるけれど、シキの想いまでは伝えてくれない。
「シキ……?」
呼びかけに反応はない。体勢もそのままに、いまだ表情はわからない。
ニアはいよいよ心配になって、しゃがみ込んだ。しゃがみ込み、シキの顔を覗き込む。
泣いているのかもしれないと思っていた。が、涙など一滴も存在しない。ただ、紅い瞳が怪しげに輝いていた。
(End.)
紅い月夜に花束を 小鳥遊 蒼 @sou532
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