7-3 気持ちと勘違い

「おはよう」


「おはよう」


 朝の通学ラッシュに混じって、挨拶が交わされる。

 秋葉もその流れに乗るようにクラスメイトたちに声をかけた。数歩先にいた莉李のもとへと駆け、同じように挨拶を告げる。


「成瀬さん、おはよう」


「おはよう、秋葉さん」


 振り向きざまに莉李は笑顔を向けた。綻ぶような笑顔だった。

 思えば後ろ姿から、そんな雰囲気が漂っていたような気がする。廊下を進む足取りがいつもよりも軽い。


「何かいいことあった?」そんな言葉が口から出そうになって、間一髪のところで秋葉は思いとどまった。手で口を押さえていたので、莉李が不思議そうに首を傾げていたけれど、適当に誤魔化しておいた。

 こちらに確認するより、あちらに聞いて揶揄う方が楽しいだろうと、秋葉は悪い顔を浮かべる。それも全て秋葉の予想の範疇を越えないのだけれど、秋葉は自信満々に自席へと向かった。


「おはよ」


「おはよう、対中くん」


 秋葉の声に、智也はおもむろに視線を逸らし、窓の外の方へと向けた。

 挨拶のために秋葉の方へと顔を向けたことを後悔する。微かに見えた秋葉の表情は、笑いを堪えているような、明らかに口角は上がっているのに、真顔を作ろうとしているようなそんな顔だった。

 智也は見てはいけないものを見てしまったかのように、目を背けた。声も、いつも通りを装っているようだったけれど、隠しきれない気持ちの高揚が滲み出ていた。


「対中くん」


「……何?」


 智也は秋葉の方を見ようともしなかった。

 それで許してもらえるはずもないことも知っていたけれど、智也からは秋葉の方に視線を戻すことはできなかった。

 窓外の景色が秋葉に変わる。秋葉は窓と智也の間に立ち、顔を覗き込むように智也の視界に割り入った。


「対中くん、わたしに何か話すことはない?」


「ないけど」


 目を合わせることもなく、声も動揺の色も隠せずにいた。けれど、その言葉に嘘はなかった。

 堪えきれず意味深な笑みを浮かべる秋葉に、智也は何のことを訊かれているのかもわからない。


「対中くん、成瀬さんに何したの?」


「はい?」


 思いもよらない発言に、たまらず智也は大きな声を出してしまう。右の眉を下げ、怪訝な表情を浮かべていた。

 何かしたかと問われれば、何もしていない。覚えはない。ただそれは智也の意識の問題で、気づかないうちに何かしてしまっている可能性もある。

 智也は悪い方に思考を働かせていた。根がポジティブな人間ではないのだ。

 だがしかし、秋葉の表情と声からは、智也を責めるようなものは一切感じられなかった。


「俺、何かしたのか?」


「わたしが訊いてるのよ! 成瀬さんがご機嫌な理由、対中くんなら何か知ってるんじゃないの?」


「いや、俺は何も……そもそも、機嫌がいいだけでそんなに気にすることか?」


「そりゃ、成瀬さんがカリカリしてることなんて見たことないけど。最近のこともあったし、あんなに全面に楽しそうな雰囲気出してるのも珍しいなと思って」


 智也が何かを隠している様子もなく、当てが外れた秋葉は不満気に自席へと戻った。ため息まじりに席につく。


「じゃあ、あの噂が原因かしら」


 ぽつりと独り言のように呟く。

 秋葉は両手で頬杖をつき、宙に視線を投げていた。


「噂って?」


 横目に智也を見ながら、秋葉は少し言い淀むように口を開いた。


「見たっていう人がいるのよ。成瀬さんが、スーツを着た男の人と仲良さそうに歩いてるところ」


「ふーん?」


 相変わらず智也の反応は薄い。「それで?」と言いたげな表情に、秋葉は呆れたように、それでももはやため息も出ない様子だ。


「そんなに悠長に構えてていいのかしら。いつも言ってるけど、格好つけて、誰かに取られても知らないわよ!」


「そんなこと、言ってたか?」


「言ってるわよ! 多分……」


 最初の勢い虚しく、最後の方は自信なさげに尻すぼみになっていく。

 取られるとは何だ? と智也は頭を捻る。そもそも、仲良さそうに歩いていたところを目撃した人がいるからといって、色々結論づけてしまうのは、尚早な気がした。


「いいんじゃないか? 抜け殻みたいだったのに、最近前みたくよく笑うようになったし。いつものあいつが戻ったみたいで。笑っててくれれば、それでいいんじゃないのか」


 秋葉は目を見開き、そして盛大にため息をついた。


「損な役回りね。まるで偽善者のようだけれど、対中くんの口から聞くと、偽善とも言い切れないところが怖いわ」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


 秋葉は眉を下げて笑っていた。

 が、それも一瞬のことで、何かを思いついたかのように目を輝かせた。


「尾行しましょう!」


「は?」


 またしても突拍子もないことを口にする秋葉に、智也は眉間にシワを寄せる。


「成瀬さんに訊いても、多分教えてくれないだろうし、それならついていくしかないじゃない?」


「いやいや、ついていくしかないじゃない? じゃないからね?」


「対中くんも気になるでしょ? 善は急げ! 今日早速、実行よ!」


「あー、今日は無理だ」


 間髪入れずに断られたことに、秋葉が首を傾げる。


「何かあるの?」


「あぁ、今日は妹の墓参りに行く日なんだ」


「あ……」


 秋葉はそれ以上、何も言わなかった。言えなかった。

 智也の妹が、ことは秋葉も知っていた。そして、彼が大のシスコンであることも。

 智也がシスコンであろうとなかろうと、お墓参りとあれば、無理強いできることでもない。秋葉の誘いの内容も内容なので、ここは大人しく引き下がる。


「対中くんの応援したかったのになぁ……」


「応援って……秋葉、何か勘違いしてるよ。それに、一緒にいたいと思うだけが全てじゃないしな」


「と、言いますと? そこのところ詳しく」


 先ほどまで落ち込んでいるような顔をしていた秋葉の調子が戻る。それはもうあっという間に。

 体を前のめりにさせ食いつく秋葉に、今度は智也が眉を下げていた。

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