7-2 戸惑いとご機嫌
この場を占める空気は、双極にあった。
一方は鼻歌まじりにご機嫌で、もう一方はその機嫌の良さに怯えていた。
「じゃあ、仕事行ってくる」
弾むような声が響き、かっちりとした服を纏ったシキが出ていく。
恐る恐る扉の方へと視線を向ける。完全にシキが部屋の外に出たのを確認してから、ウィルはため息をついた。
「ウィル、どうかしたのですか?」
しれっと現れたニアは、両手に本を抱えていた。
実際に視界に入ってきたのは積み上げられた本で、人の姿はウィルからは見ることはできない。ただ、かけられた声がニアのものだったので、ニアだと判断したのだった。
戸惑いを引きずりながらも、ウィルは「手伝います」とニアから半分、本を受け取った。
「シキさん、最近機嫌いいですね」
「シキですか? 機嫌……あれは、機嫌がいいのですね。なるほど」
頷くニアに、そんな反応が返ってくるとは思っていなかったのか、ウィルは眉を下げていた。
本はここに、と支持された場所に本を置くと、ニアはウィルにお礼の言葉を告げる。
「助かりました」
「いえ、いつでも声かけてください」
「ありがとうございます。……で、先程の話ですが、ウィルはシキの機嫌がいいと困るのですか?」
一度に二つ以上のことを考えられないウィルは、急に話が戻ったことにすぐには対応できなかった。戻っただけではなく、ウィルの言葉を咀嚼した上で、さらにその先、ウィルの心情を読み取っているかのような言葉に、ウィルは驚きを隠せない。
背格好も、纏う雰囲気もニアとは近いものを感じるのに、そういうところで如実に違いを見せててくる。それでも、ニアが相手ならば仕方ないと思ってしまう部分もあった。ニアがすごいのか、ウィルが鈍いのかについては、どちらがどうと明言はできないけれど。
気を取り直して、ウィルはニアの問いかけに答えようとした。
「あ、いえ、その……困るというわけではないのですが」
色々と切り替えられていないウィルは、なんとも煮え切らない口ぶりで返す。
ニアはニアで急かすようなタイプでもないので、ウィルが答えるまで静かに待っていた。
「結局、何が原因だったんですか? 解決策をご存知だったんですか?」
「それは、シキの個人的な話になるので何とも申し上げることはできません。心配していただいていたのに、こんな答えしか返せず申し訳ない」
頭を下げるニアに、ウィルは首を振った。
図々しくも、深入りしようとした自分が悪いとでもいうように。
「機嫌がいいのはいいことなはずなのに、戸惑うなんて変な話ですが……」
「それはシキの日頃の行いのせいですね。ウィルのせいではありませんよ」
ウィルは眉を下げて笑った。
「でも、元気になったようでよかったです」
「えぇ、本当に。誤魔化し程度に『魂』にほんの少し手を加えておいたので、すぐには気づかないだろうと思っていたんですが……いや、そもそも何に惹かれているのかもわからないのですが……もはや本能ということなのでしょうか。何にせよ、単純なものです」
早口にボソボソと話すニアの言葉は、半分ほどしかウィルに届いていなかった。
届いていたとしても、その内容を理解することは難しいだろう。案の定、ウィルは首を傾げていた。
***
ここ数日、シキの足取りは軽かった。
これまでにないほどに体は軽く、今ならどこまででも歩いていけそうな気がしていた。
本当は、足を使う必要もないのに、シキは徒歩という手段を選んでいた。その理由に、シキは思わず笑ってしまう。
そんな笑ってしまうような理由に、それでもシキは満たされたような心持ちもしていた。それがなぜなのかはわからない。けれど、ぽっかりと空いてしまった穴が埋まっていく感覚を、微かに感じていた。
『その穴を埋めるお手伝いをしましょう』
ふと、ニアの言葉を思い出す。ニアが言っていたのはこのことだったのだろうか。
記憶が消える以前のことをニアは知っている。シキに訪れた変化についても、何か心当たりがあるのだろう。ただ、聞いたところで教えてもらえるとも思えなかったので、シキは何も聞かずにいた。
とはいえ、その答えを知らないまま埋められていく感覚は、何とも歯痒かった。
それでも相変わらずシキは仕事に没頭していた。
一つ変化があるとすれば、早く終わらせようと、いつもの何倍も効率よく作業をこなしていることだ。本人もほぼ無意識なのだろう。自然と頭は次のことを考えるようになっていた。
そして今日も予定より早く作業を終える。
ニアから追加の仕事を与えられてもいなかったので、本日の業務はこれにて終了。
片付けが終わると、シキの足はいつもと同じ方向を向いていた。
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