5-10 強制reset

 ゼノンは腕を前に出した。一瞬、戸惑うように、まるで重いものでも持っているかのようにゆっくりと上げられた手は、真っ直ぐにシキの目の前に掲げられる。

 その時間は猶予のようだった。シキが口を開き、止めるのを待っているかのような……

 けれど、シキは目を閉じたまま、口を開くことはなかった。


 ゼノンはため息をこぼす。

 待ち望んでいた時が訪れたにもかかわらず、ゼノンの心は晴れなかった。来る日を想像して、その時が来たら、おそらくこう感じるのだろうと思っていたものは、何一つ感じられなかった。今となっては、どんな感情を期待していたのかもわからない。高揚感もない。感動も、寂しさも、全ての感情が消え去ってしまったかのように、何も感じなかった。

 白い制服を纏ったシキが、透き通るような銀色ではなく、瞳と同じルビーのような赤髪を横に流しているシキが、自分が知っている者ではないかのように感じていた。

 見た目の変化も、心情の変化も————時は無情にも過ぎ去り、置き去りにしていく。


 ゼノンは唯一、絶望を感じていた。

 さっさと終わらせてしまおう。

 眉を下げたゼノンは自嘲的な笑みをこぼした。

 シキの前に手をかざし、ゼノンの口が小さく動く。光が溢れたかと思うと、刹那、シキの意識が途切れた————











「勝手なことをされては困ります」


 足元から崩れるシキの前に立ちはだかったのは、ニアだった。

 相対するように差し出された手からは、同じように光が溢れ、相殺するように同時に消えた。

 眩しさが消え視界が戻ると、眉を歪め、怪訝そうな顔をしているゼノンが映った。


「ニア、邪魔しないでくれるかな」


「それは聞けないお願いですね」


 ニアは横目でシキを見た。シキはうつ伏せの状態で倒れている。ゼノンの対応を第一に考えていたので、シキのフォローまでは手が回らなかった。

 微かに上下する背中を確認すると、ニアは胸を撫でおろすようにため息をついた。


「タイミングよく現れてくれちゃって……もしかして、僕がだって気づいてた?」


「えぇ。とは言っても、気づいたのは最近のことですが」


 声や喋り方はいつもと変わらず、気易く会話をしているように聞こえる。けれど、両者とも上げた手を下ろすことなく、臨戦態勢なのはいまだ変わらない。


「シキに言わなかったの?」


「言ったところで信じないでしょう。実際に見るでもしない限り。シキは見えるもの、自分が見たものしか信じないと言っていましたから。それに、あなたのことは疑わないでしょうしね」


 目線だけを動かし、再び背後を見る。倒れ込んでいるシキを見つめ、ニアは何とも形容し難い感情に、再びため息をついた。

 目線を戻す。緊張を解かないまま、ニアは眉を上げた。


「シキの記憶は、彼女に出会ってから以降のものは全て削除しました。同様に、彼女を含むあの学校の生徒たちの記憶からも、シキに関するものは全て消しました。これで問題ないでしょう?」


「相変わらず、仕事が早いね」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 嫌味っぽくこぼした言葉を軽くかわすニアに、ゼノンは鼻で笑った。

 問題ないかと言われれば、問題しかないのだけれど————


「ここで僕が引き下がったとしても、シキはすでに『同意』しているよ。君が、一時的に阻止したとしても意味がないと思わないかい?」


「あなた方が『魂』を入手するには、もう一つ条件があるはずです。それが達成されない限り、問題はありません。違いますか?」


 攻撃を仕掛けたところ、返り討ちにあう。

 ニアは何でもお見通しのようだった。

 

「あなたがを残しておいてくれていたおかげで、随分と調査が捗りました」


 口調は変わらないが、見るからに皮肉そのものだった。

 ゼノンは自嘲の笑みをこぼす。

 こうなると、ここは一旦引くしか選択肢はないようだ。


「あなたがだということも記憶からは消えています。ですが、僕がそれを知っている以上、シキに近づけると思わないでください」


 ニアにしては強い口調で言い放つ。

 ゼノンは怯むことなく、やはり愉快そうに笑っていた。


「いいよ。方法はまた、いくらでも考えるから」


 それだけ告げると、ゼノンはあっさりと姿を消した。

 ここには、の気配だけが残っていた。



 一つ息を吐いたニアは、シキを放置したまま、この場にいるもう一人の前に移動した。


「すみません、お騒がせしました」


「……」


 今この瞬間まで起きていたことが嘘だったかのように、ニアの口調は軽かった。

 あまりに非現実的な出来事に、智也の理解は追いつかない。言葉も出ない。

 途中から、智也は完全に空気と化していた。何が起きているのかもわからない。何もできなかった。できることなど、何もなかった。

 そこに横たわる人物が無事なのかどうかさえ、混乱した智也の頭では考えることもできなかった。

 ニアは智也が混乱の最中さなかにいることに気づきつつも、気にすることなく続ける。


「そういうわけなので、あなたの記憶も操作させていただきますね。色々とご尽力いただいたのに、こちらの都合で申し訳ないです。妹さんのことも、何と言っていいかわかりませんが……こちら側の問題に巻き込んでしまい、申し開きもできないのですが……」


 少しだけ戸惑うように言葉を切ると、ニアは声のトーンを落とした。


「妹さんのことに関する記憶も、一部書き換えさせていただきます。あなたはもう、こちら側のことは何も知らない。過去に囚われず、これからはあなたの好きなように生きていってください。最後まで身勝手ですみません」


 その後の動作は、実にスマートだった。

 無駄一つない動きで、智也の前に手をかざす。そこから光が放たれたかと思うと、智也の意識はそこで途絶えた。


「あとは部屋まで運んで……」


 すでに気を失っているシキに視線を戻すと、ニアは何度目かの————今度はとても深いため息をついた。


「気をつけてくださいと言っておいたのに……あなたも大概バカだったんですね」

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