4-26 最適

 声がする。

 一人だけしかいないはずの部屋から、が聞こえる。それだけでも得てして妙なのに、聞こえてくる声には明らかに男性のものと思われる低音が混じっていた。

 この家には、以外に男はいない。


 声が聞こえると言っても、何を話しているのかまではわからない。

 が聞こえると言ったけれど、それも正確にはかどうか断言できるものではなかった。聞こえてくるのは、聞き慣れない低音のみで、喋る間合いや微かなから、誰かと喋っているのだろうと判断したのだった。


 扉の前まで近づいても、言葉を明確に聞き取ることはできなかった。小声で話しているのだろうか。もしくは電話か————いや、それにしては相手の声が近すぎる。むしろ、の声しか聞こえてこない。


 静かに扉を叩く。返事はない。声も消えた。

 は不思議に思いながらも、ゆっくりと扉を開けた。明かりをつけていないのか、部屋の中は暗かった。それでも視界がはっきりしているのは、廊下からの灯りのためか、もしくは月明かりか。


 部屋の中を見渡す。眠っているはずのの姿はなく、ベッドの上には無造作に置かれた毛布だけが存在を示していた。

 不意に視界が揺れた。正確には、揺れた何かが視界に入り込んだようだ。

 それがカーテンだとわかるのと同時に、窓が開いていて、風が吹き込んでいるのだと、冷静な頭で考える。けれど、それも一瞬のこと。目線の先にあるカーテンに映し出された影を見るや否や、固唾を飲んだ。


『誰だ』


 心なしか声が震えていた。

 返事はない。

 風が止み、カーテンが流れるように元の位置へと戻っていく。に彼女はいた。


『誰だ』


 もう一度、声をかける。今度ははっきりと声が出た。

 けれど、やはり返事はなく、その代わりに、左側だけ上がった口角が目に入った。








 ————————————————

 ————————








「おはよー」


「おはよ」


 先に登校していた智也に、秋葉が声をかける。

 秋葉は智也の隣の席にカバンを下ろし、周辺の席にいるクラスメイトたちとも挨拶を交わしていく。

 すでに挨拶を済ませている智也は、その光景から目を逸らし、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 けれど、周りがほんの少し静かになったタイミングで、何やら視線を感じるような気がした。振り向くと、やはりとでもいうべきか、秋葉が智也の方を見ていた。


「何?」


「いや、対中くん、私に聞きたいことないかなって」


「聞きたいこと?」


 智也が首を傾げると、秋葉は目線を外し、教室の前の方にそれを移した。秋葉の視線を追うように、智也も顔をそちらに向ける。けれど、そこには日常があるだけで、彼女が何を言わんとしているのかはわからなかった。


「ごめん、何?」


「もう! 週末のことだよ!」


 焦ったいと言わんばかりに、秋葉が声を張る。それでも智也はピンとこないのか、傾いた頭を支えるように、頬に手を置いた。

 秋葉の目がどんどん見開かれていく。何を惚けたことを言っているのかと、そんな苦言が聞こえてきそうだった。


「成瀬さんと会長のことだよ!」


「あぁ……」


「あぁ、って……それだけ!? 目の下に隈なんて作ってるから、気になって眠れなかったのかと思ってたのに」


 心配して損した、と思っているのか、秋葉は智也から顔を逸らし、ため息をついた。

 さすがに申し訳ないことをした気持ちになり、智也は慌てて弁解する。けれど、智也の言い訳は何とも的外れで、「ちょっと昔の夢を見て」と、寝不足の理由を説明するだけだった。


「じゃあ、本当は気になってるのね? 気になってるのよね? どうだったか、知りたいのよね?!」


「あ、あぁ……」


 秋葉の圧に押されるように、智也が頷く。

 同意を得られたことに満足したのか、大変嬉しそうな笑みを浮かべると————いや、それもほんの一瞬のことで、秋葉はすぐに表情を崩した。眉を下げ、悲しんでいるようにも見える。表情やテンションがコロコロと移り変わるのは、彼女の特徴ではあるけれど、ここで理由がわからない。


「今日、というかさっきね。下駄箱のところで成瀬さんに会ったから、聞いたのよ。『会長とのお出かけどうだったの?』って」


 智也は無言で相槌を打つ。


「そしたら、『楽しかったよ』って。クリスマスマーケットに連れてってもらったらしいのよ。それもすごく素敵じゃない? ————ただ、会長、急用ができたって帰っちゃったんですって」


「へぇ」


「でも、成瀬さん、すごく嬉しそうに話すから……拍子抜けというか、いや、別にそれが悪いってことはないんだけど。成瀬さんって、どこまでも成瀬さんなんだなって」


 フェードアウトするように小さくなっていく声。秋葉はまだ一人、ぶつぶつと独り言を口にしていた。

 何がそんなに気に入らないのだろうか、と智也としては不思議だった。秋葉が望むものというのは、おそらく彼女にしかわからないのだろう。


「で、それをあいつに言ったのか?」


「ううん。私が成瀬さんに口出しすると、対中くんにとって不利にしかならないってわかったから」


「ちょっと成長したでしょ?」と自信満々に口にする。その自信も、その言葉が何を意味するのかも、智也にはやはりわからなかった。


「それで? 本当は何に悩んでるの?」


「え?」


 不意にトーンが変わった声に、智也が目を見開く。

 トーンだけではなく、秋葉の表情もまた先ほどまでとは打って変わって、真剣な雰囲気を帯びていた。

 その変わり身の早さに、智也はふっと笑みを溢す。


「ちょっとな。……あのさ、————あー、でもやっぱいいや。やめとく」


「え、何?! 言いかけたんなら、最後まで言う!」


 気になるでしょ! っと椅子を寄せ、前のめりに耳を傾ける。

 智也は、あの日、ニアが最後に言っていた言葉の意味を、ずっと解読できずにいた。回収した魂を
するために必要な条件————『誰のものでもない』ということ。

 その意味を秋葉に訊ねようかと思ったのだけれど、いざ口にしようと思ってみると、何だかバカにされるような気がして、口を噤んだ。きっと、この勘は当たる。そう思った。


「いや、俺にできることってあるのかな、と思ってさ」


「対中くんにしては随分と弱気ね。やっぱり、会長に成瀬さんとのデートを先越されて落ち込んでるのね……あ、でも弱ってるところにつけ込んだりしないよ?」


「つけ込まれたところで、揺るがねーよ」


 早くも『真面目』を剥がした秋葉に、智也がポツリと溢しながら外方を向く。


 「おや、そういうのはツッコミたくなりますねぇ」


 顔を見なくても、今秋葉がどんな表情をしているのか見当がついた。きっと振り向かない方がいいだろう。

 咄嗟に話題を変え、難を逃れたはずだったのに、やはりこの手の話題ではどうしても秋葉の方が上手うわてなのだ。

 智也は何度目かの後悔に苛まれていた。


「ごめんごめん。揶揄いすぎた」


 やはり揶揄っていたのか————と、智也はいまだに秋葉の方を見ない。

 秋葉はもう一度「ごめん」と繰り返し、再度声のトーンを落として話し続けた。


「できることは誰にでもあるよ。それが最適なことじゃなかったとしても、できることは誰にだってある。それに、何が本当にかなんて、わかるのは未来であって、現在いまじゃない」


 クスッと笑う声が聞こえて、そこでやっと振り返る。

 また揶揄っているのだろうかと思ったのだけれど、秋葉の顔には今まで見たことのないような、優しい笑みが浮かべられていた。


「対中くんは頭良さそうだし、先にそっちが働いちゃうんだろうね。たまには、バカになることも必要だよ。これは無駄だー、とか考える前にまずやってみる。そしたら、それまで見えていなかったことが見えたりして、新しいが見つかるかも。

 あと、その行動で変化したちょっとしたことが、未来に大きな影響を及ぼさないとも限らないし?」


 最後の方は、秋葉らしく少しおちゃらけた口調だった。

 自分ができること。かどうかは、やってみないとわからない。

 確かに、そうなのかもしれない。でももし失敗したら? そもそも何をもって失敗とするのか————その答えは明白だけれど、自分の行動が最悪の事態を招くというわけでは……いや、それも断言はできない。


「また頭で考えてる?」


 その声に智也はハッとする。

 顔を上げると、秋葉の真っ直ぐな目が智也を見据えていた。


「対中くんならどうする? 黙って見てる? 自分には何もできないって、投げ出したままでいいの?」


 真っ直ぐに貫く言葉は、その反面、智也を責め立てたりはしていなかった。

 秋葉は何も知らず、智也が何について話しているのかわかっていないはずだ。それでも秋葉の言葉は、本当はどうしたいのか、真に問うているようで————


 自分ならどうするか。

 自分ならどうするか。


「俺なら……」

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