4-24 後楽

 一旦ニアと別れた紫希は、葛藤が渦巻く中、莉李を待たせている場所へと向かっていた。

 早く彼女の元へ行きたい。そうして、そのまま彼女の手を取り、楽しいデートの続きができたなら、こんなに幸せなことはないのに————

 それが叶わないのだから、急ぐだけ無駄なように思えてくる。何せ、急いだ分だけ、デートの終わりを早めることになるのだから。とはいえ、彼女をいつまでも一人で待たせておくわけにもいかない。


「はぁ……どこで間違えたかな」


 そんなことはわかりきっていた。いや、どの点を変えたとしても、おそらくニアは接触してきただろう。

 逃げることもできるけれど、ニアも言っていたように、強行されるとこちらには不利しかない。本気を出されたら、ニアを相手に太刀打ちできるはずもなかった。

 脳内であらゆる可能性を考えてみたけれど、結局のところニアに従う選択肢しか残らなかった。

 であれば、早く彼女のところに向かい、少しでも一緒にいられる時間を————そうも考えられたけれど、それはそれで別れ難くなりそうで、足は重いままだった。


「あ!」


 足音や話し声などでガヤガヤと騒がしい中、一つの音が響く。その音はまるで雑踏をすり抜けてきたかのように、紫希の耳にクリアに届いた。

 心地よい声に、紫希は目線を前方へと投げる。目線の先には、紫希に向かって手を振る莉李の姿があった。

 安心したように、微かに笑みを浮かべたその表情は、紫希待っていたかのような錯覚を生み出す————いや、待っていたことに違いはないのだけれど。


「遅くなってごめんね」


「いえ、それは全然」


「むしろ、買いに行かせてしまってすみません」と口にしようとしたところで、莉李は首を傾げた。

 心なしか紫希の元気がないように見える。おまけに、飲み物を買ってくると言っていたのに、飲み物どころか、何も持っていなかった。道中、何かあったのだろうか。

 莉李は眉を下げ、「どうかしたんですか?」と訊ねようとした。けれど、その前に紫希が顔の前で手を合わせ、謝罪の言葉を口にした。


「莉李ちゃんごめん!」


 その勢いに、莉李が目を丸くする。


「急用ができて、帰らないといけなくなって……」


「……そう、なんですね」


 語尾がしぼんでいき、莉李はそのまま俯いた。

 機嫌を損ねてしまったのだろうかと、慌てたように紫希は早口になる。


「本当にごめん! また別日に仕切り直させてもらえないかな? さっきも言ったけど、話したいこともあるし、連れて行きたいところも————って、莉李ちゃん? 何でちょっと嬉しそうなの?」


 おや? と、今度は紫希が首を傾げた。ついさっき、本当にちょっと前までは、どちらかというと不服そうな————都合よく言えば、寂しそうな表情を浮かべていたと思っていた。

 それが、紫希の弁解を聞くや否や、莉李の顔に笑みが浮かべられているような気がする。またしても目の錯覚だろうか。

 けれどそれは錯覚ではなく、紫希の願望でもなく、莉李は確かに笑っていた。


「俺、何か面白いこと言った?」


「あ、いえ。その、————また一緒にお出かけしてくれるんだな、と思って」


「……」


 照れたように笑い、目線を伏せる。その一連の動作を紫希は黙って眺めていた。

 周りの声が微かに聞こえる。聞こえるのは、少し離れたところにいる人たちの声だけで、紫希からの返答はない。不思議に思った莉李が顔を上げると、ジリジリと近づいてくる赤髪が目に入った。


「……先輩? どうしたんですか?」


「何か無性に抱きしめたくなって」


「!?————何を言ってるんですか! そういうのは学校内だけにしてください!」


 顔を赤く染め、怒っているかのような口調で紫希を窘める。

 怒られた張本人はというと、キョトンとした目で莉李を見つめていた。そしてポツリと、「学校ならいいんだ」と意外そうに呟いた。

 紫希の言葉に、莉李は頭にはてなマークを浮かべた。二人は顔を見合わせ、頭を捻る莉李に紫希が嬉しそうに満面の笑みで返す。

 莉李は言葉を咀嚼していた。自分が口にしたことも、ほとんど無意識なのだろう。何を言って、何と返されたのか思い出し、必死に噛み砕こうとしていた。

 しばらくして、自分が失言してしまったことを自覚したのか、莉李はさらに顔を赤らめた。


「あ! いえ、あの、その……そういう意味ではなくて、」


 必死に弁解を試みるけれど、焦っているためか、言葉が見つからない。

 不意に出た言葉も、テンパっている姿も、彼女にしては珍しく、それはとても新鮮で、紫希の表情が緩む。

 いまだ言葉を探している莉李の頭に手を乗せると、紫希は微笑んだ。


「本当に莉李ちゃんは可愛いね」


 観念したのか、莉李は大人しく頭を撫でられていた。

 とはいえ、最後の抵抗なのか、照れ隠しなのか、「……バカにしてますか?」と、居た堪れないといった様子で紫希を睨む。紫希からすると、上目遣いになったその瞳は、こちらを煽っているようにしか見えず、彼女の無自覚さに苦笑を禁じ得ない。


 紫希はため息をついた。

 小さく漏らしたつもりだったけれど、触れられるほど近くにいた莉李には聞こえていたようで、「先輩?」とさらに上目遣いを重ねた。


「はぁ……俺は心配だよ」


「何がです?」


「無防備なのが俺の前限定とかなら、大歓迎なんだけどね」


 紫希の言葉に頭を傾げる莉李から手を離す。

 手に残った感触が、温もりが、彼女と離れたくない気持ちを加速させる。それでも、紫希は必死にその想いをかき消した。


「何でもないよ。……じゃあ、そろそろ行くね」


 眉を下げた紫希がもう一度謝罪の言葉を口にする。

 莉李は困ったように笑って、首を振った。


「そんなに何度も謝ってもらわなくても大丈夫ですよ。それに、また楽しみができて私も嬉しいので」


「莉李ちゃん……」


 再び紫希が両手を広げ、莉李に近づこうとした時、『もうその流れはいいですから』と聞こえたような気がした。

 紫希は内心舌打ちをする。せっかく、彼女からの可愛らしい言葉と表情を噛み締めていたところだったのに、と。

 それが彼女の気遣いでも、紫希に対して、優しさを表に出してくれたことに幸せを噛み締めていたというのに。


「本当は駅まで送りたいんだけど、」


「いえ、ここで大丈夫ですよ。私のことはお気になさらず」


「ごめんね。家に着いたら連絡してね? あ、あと今日の埋め合わせについてはまた追々……」


「ふふ、わかりました。またそのうち決めましょう」


 紫希が手を振り、莉李もそれを返す。後ろ髪引かれる思いで、足が進まない中、それでも何とか————いや、渋々といった様子で、紫希は莉李に背を向けた。

 紫希の姿が見えなくなるまで、莉李はその場に立ち尽くしていた。

 目線が下に落ちる。自分の手に持っている————紫希からもらったプレゼント紙袋を見て、莉李は「あ」と声を漏らした。


「クリスマスプレゼント渡すの忘れてた」


 ポツリと溢れた言葉は、雑踏の中に消えていった。

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