4-14 雪解け

 ガヤガヤと学生の声や歩く音が混雑する。皆が同じところを目的地としているように、一点に集まってくるように感じるのは、家に帰るにしろ、部活動へと向かうにせよ、校内を出るには靴を履き替える必要があるからだ。

 紫希を待ち伏せるために莉李が選んだ場所は、下駄箱だ。生徒会室や紫希の教室、その他様々な場所を候補に挙げてみたけれど、どこも確実性に欠けていた。莉李と紫希の教室は、校舎が違うほどに離れているため、授業が終わってから向かうとなると、すれ違う可能性がある。校舎を繋ぐ通路は、主に使われているもの以外にもう一つあるからだ。

 九条に紫希を引き止めておいてもらうよう頼むことも考えたけれど、そこまで手を煩わせるのも申し訳ない。紫希に連絡したところで、返ってこない可能性もある————その辺はまだ少し、ネガティブを引きずっているようだ。となると、やはり自分自身で捕まえる必要があり、そうするのに打って付けの場所といえば、もう下駄箱しかなかった。ここなら、莉李の教室からの方が近いし、紫希が空を飛べるとかでない限り、先回りすることができると踏んだ。


 ありがたいことに帰りのHRホームルームが早く終わり、挨拶終了後すぐに教室を出たのだけれど、待てども待てども、待ち人はやってこない。

 下駄箱は学年別に並んでいて、莉李は二年と三年の境目の位置に立っていた。邪魔にならないように下駄箱が背後にくる位置で、人が通る場所は避けていた。

 先に教室を出たはずの莉李がまだそこにいることに、追いついたクラスメイトたちが不思議そうな顔を浮かべる。「人を待ってて」と説明する莉李に、納得した彼らは帰りの挨拶を告げ、帰路へと向かった。

 しばらくして帰宅ラッシュのピークが過ぎたのか、先程までの騒々しさは消え、人の姿もまばらになっていた。


「人混みの中に紛れて、見逃しちゃったかなぁ……」


 ポツリと出た言葉に、自分が弱気になっていることに気づく。いろんな人に励まされ、九条にもあぁ言ってもらい、自分自身も切り替えようと決意したにも関わらず、まだ尾を引いているようだ。こうなると、紫希に会い、本人に確認するまでは安心できないのだろう。


『嫌われたらどうしよう』そんな言葉が脳内を巡る。もし、もしも本当に紫希に嫌われてしまっていたとしたら、取るべき行動を、莉李は決めていた。————とはいえ、やはり具体的な方法はなく、できれば不要な懸念で終わってくれることを願った。

 九条が言っていた『寂しかったんじゃないのか』という言葉が本当だったらいいのに。そんなことを考えていた莉李は、ついうっかり声に出てしまっていた。


「寂しかったって、本当かなぁ」


「本当だよ」


「!」


 突然、視界に飛び込んできた赤に驚き、莉李は反射的に後退した。けれど、背中を支えてくれていると思っていた壁はなく、そのまま倒れ込みそうになる。衝撃に備えて目を瞑ってみたけれど、思っていた痛みはなく、代わりに背中を支える温もりを感じた。


「大丈夫?」


 目を開けると、目の前には紫希の顔があり、背中に回された腕に、支えてくれているのだと理解する。謝罪の言葉を口にする莉李を支えつつ、上体を起こし、体勢を戻したところで、莉李が「ありがとうござじます」と小声で呟いた。


「こんなところで何してるの? 寒いでしょ」


「あぁ、ほら。鼻赤くなってる」と、紫希は巻いていたマフラーを外すと、莉李の首元にかけた。フワッと触れる温かさとともに、紫希と同じ匂いが微かに香る。

 視線も感じた。視点が下の方を向き、まだ一度も紫希の目を見ることができていない莉李は、顔を上げることを躊躇っていた。けれど、莉李の目線まで下げられた顔は思いの外近くにあり、目を逸らし続けているのも無理がある。莉李は意を決して————とはいえ、ゆっくりと————紫希の方を見た。

 1週間ぶりに見るその顔は、いつもの見慣れたものだった。1週間で変化があるわけもない。もちろん、言いたいことはそういうことではなく、いつもの変わらない紫希の顔だった。

 紫希の顔に浮かべられた笑顔に、合う視線に、張り詰めていた緊張の糸が解れる。


「……」


「? 莉李ちゃん?」


 力なく足元から崩れる莉李に、慌てたように紫希が手を伸ばす。けれど、少し反応が遅かったせいか、莉李の足の力が完全に抜けているためか、支え切ることができず、莉李の足がゆっくりと接地する。

 紫希はどうしてそんな状態になったのかわからず、首を傾げていた。


「莉李ちゃん、どうしたの? もしかして、さっきどこかぶつけた?」


「………た」


「え?」


 支えるように莉李を抱えた腕に、しがみつくように手が触れる。少し震えているように見えるその手に、声まで震えているかのように鼓膜を揺らす。


「……こっち見てくれた…。口聞いてくれた……」


 ため息まじりに漏れる言葉。再び下を向いた顔は、眉が下げられているけれど、困っているでも、落ち込んでいるでもなさそうだ。しっかりと握りしめた紫希のコートの袖に、紫希の存在を確かめながら、安堵しているかのように自然と口から言葉が溢れたのだった。


 けれど、そんな安堵の時間は一瞬で終了を迎える。

 莉李は、ハッとしたように顔を上げると、「すみません」と言いながら紫希から離れようとした。離れようとした莉李の腕を紫希が掴む。


「どうして離れるの?」


「いや……その、」


「?」


「えーと、紫希先輩怒ってないですか?」


 おずおずと、紫希の様子を伺う。目線だけを紫希に向ける莉李に、紫希は目を丸くする。何のことを言っているのかわからないといった様子だ。


「触れられるの、嫌なのかと」


 実際は、「縋る」という行為を嫌っているのだと思っていたのだけれど、そこは何となく言葉にできずにいた。どちらにしても、今現在もどっちにも当てはまる行為に及んでいるわけなので、何もわからないうちは、莉李としてはすぐにでも要因を排除したかった。


「嫌じゃないよ。むしろ、莉李ちゃんからなら大歓迎」


 紫希の顔には笑みが浮かべられていた。言葉の雰囲気もいつもと変わらず、軽さの中に穏やかさが含まれている。


「莉李ちゃんは俺が怒ってると思ったの? というか、俺から触れるのはよくて、莉李ちゃんが触れたら怒るとか、俺どんだけ自分勝手なの」


「いや、それはそう……」と、そこまで考えて、咳払いで打ち消した。自覚があったのかとも思ったけれど、それももちろん口には出さない。

 そこでふと、いつもの思考に戻っていることに気づき、莉李は再びため息が漏れた。今度こそ本当に心の底から安心しているようだった。


「で、莉李ちゃんはここで何してたの?」


「あ、そうだ! 先輩を待ってたんです」


「え?」


「これを渡したくて」


 莉李は九条たちに渡したものと同じ袋を、紫希に差し出した。「ありがとう」と口にした紫希が、受け取るときに一瞬躊躇したのを、莉李は見落とさなかった。


「……」


「あ、違うよ。すごく嬉しいからね?」


 何も喋っていないのに、俯いている莉李の表情も見えないはずなのに、何かを察したのか、紫希が慌てた様子で弁解を始める。


「遠野が持ってたのと同じものだったから、ちょっとね」


 顔を上げた莉李の目に、自嘲気味に笑う紫希の顔が映る。その表情に、莉李の眉が下がり、そのまま目線が下へと落ちる。

 そんな莉李の仕草に、さらに苦笑いを重ねると、紫希は「わからなくていいよ」と莉李の頭を撫でた。


「……実は、」


 控えめに口を開いた莉李に、紫希が首を傾げる。莉李の顔を覗き込むけれど、莉李は鞄へと視線を落としていて、目は合わない。

 どうしたのだろうかと、莉李を見つめたまま、続きを待つ。


「紫希先輩には、別のものもあって」


「え?」


 鞄から別の紙袋を取り出し、再び紫希の前に差し出す。懸念を拭いきれなかった莉李は、合格祈願のお守りが不要だった場合に備えて、他のものも用意していたのだった。中身は、ほとんど食べられるものだ。

 最初に渡したお土産の中にもお菓子は含まれていたけれど、それに加えて紫希の好きそうなものを選んで詰め合わせていた。食べ物であれば残らないし、もし受け取ってもらえなかったとしても、自分で食べればいいや、くらいに思っていた。

 しかし、先程とは異なり、紫希はなかなか受け取ろうとしない。

 いまだに自分の手にあるお土産から目を逸らし、莉李は紫希の方へと視線を向ける。するとなぜか、紫希は固まっていた。莉李が手に持っている紙袋を見つめたまま、目を見開いている。紫希の表情が何を意味しているのかわからず、莉李は無意識に差し出していた手を、自分の元へと引いていた。


「あ、ごめん」


 莉李の動きに我に返った紫希が、反射的に莉李の腕を掴む。そのまま莉李の手を包み込むと、下から顔を覗き込んだ。


「これ、俺がもらっていいの?」


 紫希の声は、いつも以上に穏やかな雰囲気を醸していた。その声と同じように、表情も微笑んでいるような、柔らかさを帯びていた。

 そんな優しい紫希の問いに、莉李は頷いた。それを確認した紫希はさらに破顔し、「ありがとう」と言って、莉李からお土産を受け取った。


「気を遣わせちゃったね。お詫びと言ってはなんだけど、何かお返ししたいな。何か俺にお願いとかないかな?」


「え」


「莉李ちゃんが俺にお願いなんてないか」と言いかけるよりも前に、莉李からの反応の方が早かった。

 お互いがお互いに目を見開く。そんな紫希の反応に、冗談だったのだと解釈した莉李は顔を赤らめた。


「あ、すみません……何でもないです」


「帰ります」と言わんばかりに、勢いよく立ち上がった莉李は、急いでこの場を立ち去ろうとした。まるで逃げるかのような素振りを見せる莉李の腕を掴み、引き留めたのはもちろん紫希で。


「何?」


「え?」


「さっき考えてたこと、教えて?」


 まるで子どもをあやすかのような口調で莉李に諭す。いいのだろうかと戸惑いながらも、緩んだ緊張感から解放されるように、莉李の口が動く。


「何でもいいんですか?」


「うん。俺にできることなら」


「じゃあ、あの……一緒に出かけてくれませんか?」


 紫希の反応を見る前に、「無理にとは言いません! もしよければで……」とすぐさま言葉を重ねる。拒否される可能性の方が高いと思い、流してくれていいのだというニュアンスを伝えたかったのだろう。

 俯いたまま、返事を待っているのか、待っていないのかわからない莉李の様子に、紫希はふっと笑みを漏らす。


「いいよ」


「え?」


 紫希の返事に驚いたように莉李が顔を上げる。その勢いに、一瞬気圧されながらも、紫希はその顔に笑顔を戻した。


「莉李ちゃんからのそんな素敵なお誘いを、俺が断るわけないでしょ。ていうか、お詫びなのに、俺得なお願いでいいの?」


 口調は優しいまま、けれども質問攻めのように繰り出される言葉に、莉李はただ頷いていた。


「どこか行きたいところがあるのかな?」


「えーと、そこまでは考えてなかったです」


「じゃあ、俺が考えてもいい?」


 紫希からの提案に首を傾げながらも、莉李は二つ返事で承諾した。莉李の返事に満足そうに笑みを浮かべると、「じゃあ、詳細はまた追々伝えるね」と告げ、今日のところは解散することになった。

 結局、あの時の紫希の態度については何もわからなかったけれど、いつも通りに接してくれる紫希を見ていると、改めてそのことを掘り返さない方がいいような気がして、本人には聞けずにいた。

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