4-13 メリット

 九条を見送り、自席に戻る前に、一声かけようと遠野の方に顔を向けると、視線がこちらを向いていた。


「何、遠野」


 先程の呟きが聞こえたのだろうかと、紫希は伺うように遠野を見た。とはいえ、紫希としては聞こえていたとしても差し支えないため、その表情には動揺の色など微塵も感じられない。

 紫希に視線を向けている遠野は、何やら不服そうに口を窄めていた。


「いや……国東はいいなと思って」


 呟くように出た言葉に、遠野は自嘲的な笑みを浮かべると、「ずるい、とも言えるかな?」と言葉を足す。

 何について言われているのか皆目検討もつかない紫希は、キョトンとした目を遠野に向け、首を傾げた。


「国東はさ、明らかに好意があって、それでいて付き合おうと思えば付き合える環境にいるのに、それをしないのは傲慢だ」


「傲慢って…」


 酷い言いがかりに、紫希は肩をすくめる。

 遠野にしては、そんな発言は珍しい。さすがの紫希も、何かあったのだろうと察してはいたけれど、それでも辟易したような表情でため息を一つこぼす。


「九条もそうだけどさ……何でみんなそうやって、付き合うことを勧めてくるの? そもそも付き合うって、そうすることで何のメリットがあるの?」


 住人不在となっている遠野の前の席に腰掛けながら、紫希が訊ねる。


「……独占できる。それに、少なくとも堂々と牽制できるでしょ」


 遠野の言葉に、「意外と子どもっぽい理由だね」と笑いそうになるのを堪える。けれど、隠しきれなかったのか、遠野はムスッとした表情を浮かべていた。対して紫希はというと、いつもの調子で悪びれもなく「ごめんごめん」と軽口を叩く。


「牽制したい相手がんだね」


「……これからもいっぱい出てくるかもしれないでしょ」


「そう思ってるなら、いっそ言っちゃえばいいのに。伝えないの?」


「そうだね。まだ、言わない」


 遠野は紫希から目を逸らし、自身の手元を見つめた。目線の先にある手は、握りしめるような、何かを掴むような素振りをしていて、その視線の切なさからも、「言わない」というよりは、「言えない」と言った方が正しいように思えた。


「そんな悠長なことしてて、誰かに取られでもしたらどうするの?」


「それは国東に言われたくないけど。でもそうだな……それで、その人が幸せになれるなら、その方がいいのかもしれない」


 困ったような笑みを浮かべていた遠野の顔が、言葉が進むにつれ、どんどんと色をなくしていく。自分で自分を苦しめているかのように。切なさを自分の言葉で生み出しているかのように。

 そんな遠野の哀愁を知ってかしらずか、紫希は何とも間抜けな声を出す。


「ふーん、変なの」


「何が?」


「一番大切に想っている人なのに、自分が一番幸せにしたいと思わないんだなと思って」


「それを言い切れるほど、自分に自信ないよ。それに、もし他の誰かがその人を一番幸せにできるとしたら、それを応援するのも相手を想うことになると俺は思うけど」


 遠野は早口にそう言った。その言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

 紫希は気にする様子もなく、真っ直ぐな視線を遠野に向ける。


「でもそれってつまり、人に譲れる程度の想いってことだよね? だから、遠野は気持ちを伝えられないんだ」


「……その辺は複雑なんだよ。言えないのは、他に理由があるからだけど……でも、そうだな。確かに、本当は譲りたくないから、」


「今も変わらず、ずっとこんなに好きなんだろうな」と続く言葉を遠野は飲み込んだ。

 遠野から振った話題ではあったけれど、こんなにもすんなりと会話が成り立ち、膨らんだことに、今になって戸惑いを感じていた。紫希が知ったような口を聞いていることにも、疑問を抱かずにはいられないけれど、これ以上自ら墓穴は掘るまい。

 突然黙ったことで、紫希から追求されることを恐れた遠野は、恐る恐る紫希に視線を向ける。けれど、遠野の懸念は無駄に終わった。何せ、紫希は「ふーん」と興味がないかのように、自分の手先を見つめ、手遊びをしているのだから。おまけに、「ややこしいんだねぇ」と呑気に呟いている。ついさっきまで同じ話題について話していたはずなのに、もはや他人事のようにも感じる。


「まぁでも、一部に対しては遠野は十分牽制できてると思うよ」


「え?」


「というか、さっき九条が言ってたことなら、気にする必要ないと思うけど」


 目線は自分の手先を向いたまま、紫希がやはり興味がなさそうに言葉を紡ぐ。その態度と言葉の釣り合わなさに、遠野は思わず笑ってしまう。励ましているつもりだろうか。

 その紫希の言葉にはわからない点の方が多かったけれど、やはり紫希は事情を知っていて、その上で喋っているということだけは理解した。


 そうこうしているうちに、チャイムが鳴る。昼休み終了5分前の予鈴だ。今度こそ本当に昼休みが終わってしまうらしい。


「じゃあ、俺もそろそろ自分の席に戻ろうかなっと」


 そう言って腰を上げた紫希に、遠野が何かを思い出したかのように顔を上げる。


「さっきの、付き合うメリットだけど」


「うん?」


「付き合った人にしか見せない顔ってあるでしょ。そういうの、いいよね。特別感あって」


「付き合った人にしか見せない顔?」


 遠野の顔をマジマジと見つめながら、紫希は頭を捻る。


 付き合った人にしか見せない顔というものが存在するのか。

 初対面の人間に見せる顔と、仲がいい人間に見せる顔が違うのと同義だろうか。さらに、そこから分けられると?


 付き合った人にしか見せない顔。特別。より親しい人との間でしか得られないもの————


「それって、すぐに変わるもの?」


「すぐに、とは?」


「いや、俄には信じられないんだけどさ。関係っていう曖昧なものが変わるだけなのに、どうして見せる顔が変わるの? それって関係性が変われば、すぐに見られるものなの?」


 珍しく真面目な表情で食いつく紫希に、丸くした目を、遠野はすぐに細めた。


「すぐにかどうかは、相手にもよるし、どっちかというとこっち側の努力次第だと思うけど……」


 言葉を濁す遠野に、紫希は追求するでもなく、「ふーん、そういうものなんだ」とまたしても興味がなさそうに覇気のない声を出す。表情もまた、納得しているようなものではなかったけれど、そんな顔に反して紫希は「なるほど」と言って、何度も頷いていた。


「ありがとう、遠野。参考になったよ」


 笑みを浮かべ、もう一度感謝の言葉を告げた紫希は、自席へと戻っていった。

 振り向きざまに「その方法を試してみるのも悪くない」と呟いた紫希の声は、午後の授業の開始を告げる本鈴により、かき消された。

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