4 選択

4-1 マニュアル

 12月に入り、寒さは厳しさを増した。朝晩に限らず、日中でも外に出ると白い吐息が見られることが多くなり、道行く人はコートを羽織り、中にはマフラーや手袋を身につけている人もいた。学生たちも例に漏れず、制服の上から防寒対策を怠らない。学校指定がないため、各々好みのものを纏っていた。ダッフルコートにピーコート、チェスターコート……カラーバリエーションも種々様々だ。


 朝の早い時間だということを差し引いても外は暗く、初雪をもたらすと言われても頷けるほどの厚い雲が空を覆っていた。晴天続きだった昨日までとは打って変わった空模様に、紫希を除く生徒会メンバー全員が、天気の変化は紫希の珍妙な行動のせいではないかと考えていた。

 事の発端は昨夜のこと。修学旅行が明日に迫った夜、22時を過ぎた頃、九条から生徒会メンバーに連絡が入った。『夜分遅くにすまない』と前置きされた文面に、全員が背筋を伸ばしたことだろう。内容は極シンプルなもので、明日の朝、生徒会室に集まってほしいと書かれていた。招集は紫希の希望によりかけられたものだとも記されている。紫希からの要望だとわかるや否や、伸びていた背筋は元に戻り、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。

 しかし、不可解な点はあった。近く生徒会が関与するような大きな行事もないため、次回の会合は修学旅行明けとなっていたはずだ。修学旅行を目前にして一体何事だろうかと、皆首を傾げた。九条に確認しても、詳細は知らないと言う。




 いつもより早く家を出た莉李は、学校へと続く坂道を登っていた。目線を上げると、見慣れた人物が前を歩いている。随分早い登校なのは、莉李と同じ理由からだ。


「ノイくん、おはよう」


 先を歩く野依は、莉李の声に振り返ると「おはよう」と返した。


「朝練、大丈夫だった?」


「明日から修学旅行だから、今日は放課後の練習も休み」


 野依の表情は今日の天気のようにどんよりとしていた。野依の性格上、修学旅行が楽しみじゃないはずはないだろうし、部活が休みだということが不満なのだろうか。後者にしても、やはり修学旅行の楽しみに勝るものはないだろう。

 そんなことを考えている間に、早くも生徒会室にたどり着く。莉李と野依が生徒会室についた時には、呼び出した張本人以外はすでに集まっていた。


「俺は何だか嫌な予感がしています」


 荷物置き、席に着くなり、青ざめた顔の野依が口元を右手で隠しながらそんなことを口にした。

「何がだ?」と九条が訊ねると、野依は勢いよく顔を上げる。キレのあるその動作は元気そうに見えたけれど、やはり表情は暗いまま。呼び出された用件について、思い当たる節があるらしい。けれど、野依の言葉とその表情から、その予想は野依にとって都合が悪いことなのだと推察された。


「だって、考えてもみてくださいよ! このタイミングで呼び出します? 会長自分じゃなく、九条先輩に連絡させてるのも怪しい。しかも、招集を前日の夜にかけるなんておかしいと思いませんか?!」


「それで、ノイは呼び出しの理由を何だと考えているの?」と遠野が訊ねる。


「修学旅行ですよ! きっと自分が行けないからって、最後の手段に出たんだ! そうに違いない! 前日ってのが、こっちが何もできないのを狙っているとしか思えない!!」


 悲痛に叫ぶ野依の声に、遠野が眉を下げて笑っていた。九条は、野依の豊かな被害妄想に言葉が出ない。九条が知りうる情報と常識的に考えて、野依のは果てしなく現実から遠いように思われた。楽しみが過ぎる故に、心配になっているのかもしれない。誰も口を開かないため、とうとう野依は祈るポーズまで取り始めてしまった。さすがに可哀想になってきたため、励ましの言葉の一つでもかけようかと九条が口を開きかけたところで、タイミングを見計らったかのように本日の主役とも言える人物が扉を開けた。


「ノイ、面白いことを考えてるねぇ」


 遅れたことに対する詫びはないまま、紫希は野依の方を向いた。紫希の顔には含み笑いが浮かべられていて、それが野依の懸念が当たっていることに向けられているのか、それともその発想が予想外だったことに起因するのかは判然としない。

 そんなことよりも、呼び出して置いて、重役出勤を決め込むとは、彼のマイペースさにはほとほと呆れる。九条がため息をつき、紫希に用件を伝えるようにと促す。単刀直入に切り込む九条に、まだ心の準備ができていない野依は、紫希と九条の顔を交互に見た。

 紫希はさらに不敵な笑みを浮かべると、それが合図だったかのように外から窓を叩く音が鳴り始める。見ると、水滴が窓を濡らしていた。いよいよ天気が崩れたかと、メンバーは自然と紫希へと視線を向ける。張本人はというと、全員から向けられる異質な視線を気にもせず、各人の目の前に冊子を置き始めた。


「国東、これは何だ?」


 置かれた冊子を手に取り、九条が紫希に訊ねる。その表情はいつもと違う訝しげさを呈していた。

 冊子はA4サイズの紙が十数枚ほど重ねられたものだった。縦の両面印刷で、左端を二箇所、ホッチキスで留められている。表紙にタイトルはなく、昨夜の日付が記載された後に『第一版』とだけ記してあった。


「マニュアルだよ。今まで何でなかったんだろうと思って」


 不思議だよね、と呆気らかんとして口にする。一枚捲ると、親切丁寧に目次まである。各担当ごとにどのページに飛べばいいのか辿れるようになっていた。試しに遠野と野依の担当である『書記』部分を捲ると、驚くことにすでに業務内容が記載されている。それは簡易なものではなく、詳細が事細かに書かれてあった。文字数が多いわりに複雑さを感じないのは、見やすさへの配慮と、まとめる能力の賜物だろう。もっと見ていくと、なんと全担当の業務内容まで書かれているではないか。もはや、他のメンバーが加筆するまでもなさそうだった。


「え、これ会長が作ってくれたんですか?」


 信じがたい事実に、野依が放心した表情で訊ねた。驚いているのは野依だけではなく、九条ですら「いつの間に作ったんだ? 引き継ぎの話をしてからか?」と目を見開いている。

 あれほど駄々をこねていたにもかかわらず、その時点で作成に移っていたのだろうか。それならそうと、もっと早く教えてくれればいいものを、と言いたげな九条に対し「ううん、昨日」と紫希が臆面もなく答える。


「は?」


「昨日、ふと思い立ってね。家に帰ってからちゃちゃーっと」


「一晩で?! 一晩でできるようなものじゃないだろ」


「ま、その辺は俺にかかれば余裕ってやつ」


 皆が唖然とする中、一人余裕を見せる紫希に、「普段からその技量を発揮してほしいものだ」と九条が悪態をつく。


「俺は会長のやる気スイッチがわからないっす」


「ノイが安心して修学旅行に行けるように、今日持ってきた俺を褒めてほしいくらいだよ」


 これで荷物が減るでしょ? と付け加えられた言葉に、野依が一瞬フリーズする。思わず「見たんすか?」と口走りそうになる。


「どういうことだ?」


「真面目なノイくんは、修学旅行後に待ち構える生徒会メンバーの入れ替えに備えて、旅行先でも引き継ぎの準備をしようとしていたのですよ」


 口調を変えて、まるで見てきたかのように紫希が説明する。それが本当かどうかは、顔を赤くした野依を見れば一目瞭然だ。それに対して九条は顔を顰める。おまけに遠野まで眉を下げた。

 せっかくの修学旅行で、そんなことする必要はないと散々説明したはずだろう、と二人の表情が圧を与える。怯むように困った表情を浮かべた野依は、大人しく「すみません」と口にすると、次いで「持っていこうとしたものは全て置いていきます」と約束した。


「でも、あれっすね」


 次の瞬間には、野依は現金にもいつも通りに戻っていた。下げていた眉も定位置に戻すと、冊子をパラパラとめくりながら口を開く。


「会長が俺たちの仕事内容、把握してたことに驚きっす」


 野依の言葉に、全員が確かに、と頷きかけた。もちろん、野依以外は首が傾くすんでのところでそれを制したのだけれど。本人を前に、しかも仮にも先輩に対してそんなことが言えるのは野依の長所であり、短所でもある。

 失礼とも言える言葉を口にした張本人は、目の前の冊子に夢中で、自分に伸びてくる手に気づかない。


「悪いこと言う口はこの口かなぁ?」


 紫希は野依の両頬を掴むと、そのまま外側へと引っ張った。強く力は入れていないようだけれど、痛いことには変わりないのか、野依が顔を上げ、そこで初めて「しまった」というような顔をする。謝罪の言葉を口にするけれど、頬を引っ張られた状態では、きちんと発声ができない。それを揶揄うように、紫希が笑みを浮かべながら「何? 何て言ったの?」と言って遊んでいる。

 しばらくしてから、そろそろやめてやれ、と九条が止めに入った。何とも平和で、和気藹々とした時間だ。

 その輪の外で、莉李は傍観に徹していた。というよりは、待っていたのかもしれない。紫希から「どう? 莉李ちゃん、俺すごい?」というような言葉がかかるのを。

 けれど、予想に反して紫希がその手のことを口にすることはなかった。そもそも莉李に向けて口を開く素振りが見られない。少し静かになったところで、「先輩、ありがとうございます」と声をかけてみたのだけれど、それに対する返事も簡素なものだった。

 はて? と思って紫希を見つめるけれど、目線が合わない。そういえば、今日ここに来て一度も目が合っていない気がする。さらにじっと見つめて、紫希がこちらに視線を向けないかと試みるけれど、無駄に終わった。


 再度声をかけようとしたところでチャイムが鳴る。始業前の予鈴だ。

 その音を聞くや否や、紫希はあっという間に終幕の言葉を告げた。

 生徒会室を出るまで————出てからもなお、やはり紫希は莉李の方を見ようとはしなかった。

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