3-12 おえない
まもなく電車が到着します、とアナウンスが流れ、掲示板にも同様の案内が表示される。
案内の通り、左側からホームへと向かってくる電車を目視することができた。
莉李は手元の本から目線だけを上げ、電車を確認する。見える位置にいるというのに、莉李は本に視線を戻し、束の間、物語の世界へと潜り込んだ。
莉李の後ろには、男性が一人同じように電車を待っていた。
寒いのか、その男性はマフラーを巻いている。口元まで覆うようにぐるぐると巻かれたマフラーのせいで、顔はよく見えない。
ホームにはやはりまばらにしか人はおらず、莉李が立っているところには、その男性以外誰もいなかった。
他の車両に位置する乗客たちも、来たる電車の方を見ていたり、手元のスマホに集中していたりと、他の人に干渉する者はいない。
電車の音が強くなる。
駅員の声が再度案内を伝え、電車の姿はどんどんと大きくなる。電車が近づいてくるのと同じように、莉李の後ろから莉李に向かって手が伸ばされていた。その手は一旦止まり、自身の元へと戻したかと思えば、勢いをつけて前へと押し出された。
押される————その刹那、莉李と男性の間に何かが入り込み、一つの影が莉李に覆い被さった。
「……成瀬!」
急に落とされた影。そして、名前を呼ぶ声に莉李が振り返る。
振り返ると、すぐそばに見慣れた白い学ランが目に入った。目の前に広がる白を辿り、顔を上げるとそこに立っていたのは智也だった。
智也はなぜか息を切らせていた。今まさに到着した電車に乗ろうとしていたのだろうか。
それに、いつもよりも距離が近いような気がする。智也の影に莉李の体はすっぽりと収まっていた。いつもなら、手を伸ばしても届くかどうかという距離を保っているのに、今は触れるか触れないかといった至近距離まで踏み込んできている。あまりに距離が近いせいか、莉李よりも大きな体が壁となって、智也の背後を見ることはできない。
「対中くん? どうしたの?」
声をかけた莉李に返答せず、智也は顔だけ後ろを振り返った。
智也が振り返った時にはすでに男性の姿はなかった。そのことに安堵しつつも、内心舌打ちしたい気持ちが沸き立ち、それでも口から出る一歩のところで思いとどまると、苛立つ気持ちを奥底へと沈めた。
「送る」
「え?」
「いいから、乗るぞ」
莉李の手を引くと、開いている扉の中に吸い込まれるように乗り込んだ。
状況が掴めないまま、莉李は智也の背中と閉まっていく扉を眺めていた。
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————————
電車の中は二人が乗り込んだホームで電車を待っている人数とさほど変わらず、乗客は数えるほどしかいなかった。
その全員が座してなお空席が目立つ電車内で、智也だけが腰を下ろさずにいた。
「ちょっと考えてたんだけどさ」
端の席に座っている莉李は、目の前にいる智也を見上げながら口を開いた。
言い淀んでいるのか、その口ぶりは重い。
「私、修学旅行行かないほうがいいかな?」
「何で?」
「秋葉さんが言ってたでしょ? 私最近何かとツイてなくてさ…これまでは私だけに何か起きてたけど、近くにいる人たちに被害が及ばないとも言い切れないわけで……もし、修学旅行先で何かあって、せっかくの思い出を台無しにしたくないなって」
最後の方は智也から目を逸らし、節目がちに言葉を紡いでいた。
「何で急にそんなこと言い出すんだよ」
ホームで起こりそうになっていたことは、莉李は気づいていないはずだ。彼女は目の前の本にのめり込んでいたし、智也が間に入った後も、後ろにいた人物は視界にも入っていないと思われた。
ではなぜ、このタイミングでそんなことを言い出すのだろうか。
智也の言葉に、莉李は自嘲するような笑みを顔に浮かべた。やはり目線は交わらない。
「……対中くんが送ってくれてるのって、そういうことなのかな、と。なんて、自意識過剰か」
ごめん忘れて、と莉李はヘラッと笑った。敢えて、軽い笑いをしているように見えた。
「笑うな!」気づいた時には、智也はそんなことを口走っていた。
声こそそこまで大きくはなかったけれど、智也の剣幕に莉李の肩が跳ねる。
「……ご、ごめん」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
怯えたような莉李の表情に、智也はすぐに先程の自分を悔いた。
そんな顔をさせたいわけではないのに。どうもうまくいかない。
不安にさせないように送っていくと言い出したはずなのに、そのことが逆に不安を煽っていたなんて。うまく立ち回れない自分にイライラして、傷つけたくない相手に当たってしまっていては本末転倒だ。
「俺が言いたいのは、無理に笑うなって意味であって……別に怒ってるわけでは、」
しどろもどろになりながらも、言い訳まがいなことを口にする。
語尾はどんどん小さくなっていき、着地点を見つけられないまま終息していく。
莉李と関われば関わるほど、自分のダメなところを露呈しているようで、そのこともまた智也にとっては不本意以外の何物でもなかった。
しかし今、自己嫌悪に苛まれている場合ではない。
考えることは山積みで、けれどまず自分が何をすべきかということだけは、智也の中に明確な答えがあった。それが正解かはわからないけれど、むしろ正解であってほしくはないけれど。
何にせよ、現時点で立ち止まっている暇はない。
そう決意した矢先、目の前で笑い声が聞こえた。
ふっと漏らすような柔らかい声。
「……何?」
不機嫌そうに訊ねる声には、照れ臭さのようなものが混じっていた。
「やっぱり対中くん、優しいなと思って」
「は? 今のをどう解釈したらそうなるんだよ」
「そのままだよ。そのまま」
そう言いながら笑う莉李の顔が、ほんの少しだけいつもと同じように見えた。
それだけで救われたような気持ちになる自分に、智也は自嘲する。
智也は、そんな自分の内心を見透かされないように、莉李の頭に手を置くと、少し荒く莉李の頭を撫でた。
「もう何でもいいや。お前はそうやって呑気に笑ってろ。修学旅行のことも、気にせず楽しめばいいんだよ」
「?」
智也の言葉の意図が分からず、莉李は顔を上げようとした。
けれど、頭に乗せられた智也の手がそれを阻み、智也の表情を伺えない。
「あとは俺が何とかする」
静かに呟かれた言葉は、電車が走る音に飲まれ、莉李の耳には届かなかった。
***
莉李を家まで送り届けた智也は、再び電車へと乗り込んでいた。
進行方向は先程とは反対に。けれど、自宅に向かっているわけではなかった。
気は急く一方で、それでも電車は自分に都合よくスピードを早めてくれたりはしない。
そんな当たり前のことに頭を冷やしながら、目指す駅に到着するのをただ静かに待っていた。
電車を降りると、智也は足早に改札へと向かった。
もちろん、家の最寄り駅ではない。
改札を出る頃には日が落ちていて、辺りは暗闇に包まれようとしていた。
住宅地とは言えないけれど、仕事や買い物目当てに人が集まるような駅でもない。それでも至る所に街灯やら、お店や建物から漏れる光で視界に不自由を感じないほどの明かりは保たれていた。
その明かりを頼りに智也は前へと進んだ。
道は覚えていた。
一度だけ、ふらりと歩いた場所だけれど、その場所は嫌でも頭に染み付いていた。
けれど、そこに目当ての人物がいるかどうかは分からない。
まして、この件に彼が関わっているかどうかさえ、智也の憶測に過ぎなかった。
無駄足になるかもしれないと、それでも智也が考えられる可能性は一つしかなかった。
本当に無駄足になってしまった場合、また振り出しに戻ってしまうわけだけれど、智也の懸念はある意味で裏切られることになるのだった。
冷たい空気の中を風が通る。
風に乗って、声が聞こえたような気がした。
「何で邪魔したの?」
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