3-10 いない

 帰りのHRホームルームが終わり、教室内の静寂が破られる。

 クラス担任が教室を出たのを合図に、すぐに帰路に向かう者もいれば、早速放課後の雑談を始める者もいた。


 いつもならHRが終わると、帰宅組と同じく早めに家路に着く智也も、この日は何やらのんびりしていた。のんびりというのは、教室を出る気配がないということを意味し、実際は帰り支度をしながら、周囲を気にしているかのように、そわそわしている様子だった。

 その視線は、隣の席に向けられているようにも見えた。じっと見ているというよりは、チラチラと様子を伺っているようだった。


「じゃあ、また明日ね」


 智也が視線を逸らした一瞬のうちに、莉李が智也の方へと振り返り、いつものように帰りの挨拶を告げる。そのまま踵を返した莉李に、智也は慌てたようにかける言葉を探した。けれど、こんな時に限って彼女を引き留める言葉は見つからない。そんな言葉は、ドアをノックして入ってきてはくれないのに、智也の目の前にはありがたくもないが入った。莉李と智也の間に割って入ったのは、関目だ。


「対中、今日暇? 暇だよな?」


「悪い。今日はちょっと……」


「そう言わずにさぁ。付き合ってくれよぉ。久弥と三人でちょっくら買い物にでも行こうぜ」


 意気揚々と智也に近づいてきた関目は、そんな彼とは正反対に、今にも帰りたげな雰囲気を醸した久弥を連れていた。本当に、言葉通りにいるというような感じだった。大方、関目に無理矢理付き合わされているのだろう。そうは言ってもここまで一緒に来ているのだから、なんだかんだで久弥の優しさでもっているとも考えられるけれど、腕をがっちりホールドされているのを見ると、単に逃げられなかったのだと言わざるを得ない。

 そんな二人の状態を見て、久弥に同情心が煽られるけれど、この時ばかりはどうにも力になれそうになかった。


「本当にごめん。今日は無理。また今度誘ってくれ」


 眉を下げ、困ったように言葉を紡ぐ智也に、関目はそれでも食い下がった。キリがないやり取りに、智也の気は急く一方。

 そんな智也に救いの手を差し伸べたのは久弥だった。


「関目、今日のところは諦めろ。しつこい男は嫌われるぞ」


「え…マジか。じゃ、じゃあ、今日のところは勘弁してやる。けど、絶対に今度時間作ってくれよな! 約束だかんな!」


 さっきとは打って変わって関目があっさりと引き下がる。おそらく、久弥の『嫌われるぞ』という言葉が『モテないぞ』に変換されたのだろう。彼が何に重きを置いているのかが明らかになったところで、智也が関目の言葉に頷いた。最後の言葉に、関目の素直で可愛げがある人柄が伺える。


「………悪いな、助かった」


 久弥にだけ聞こえるように智也が言葉を紡ぐと、久弥は「気にするな」と笑った。その笑みに返答すると、智也は二人に手を挙げ、教室を出た。


 教室を出てすぐ、窓から下駄箱付近に視線を送った。

 グラウンドを挟むようにして旧校舎と新校舎があり、二つの建物を繋ぐ渡り廊下で校舎全体が形成されている。渡り廊下の向かい側にも旧校舎と新校舎を行き来できる通路があり、その下、一階部分に下駄箱があった。下駄箱は郊外側にはもちろん壁があるのだけれど、校舎側は吹きっさらしの状態で、死角以外は見通すことができた。

 智也は下駄箱に向けて目を凝らした。探しているのは、ただ一人————


 彼女の歩くペースを考えると、まだ校内にいるだろうと推測された。

 校舎の外に出られてしまうと、探すのに苦労する。何としても、で見つけておきたい。

 智也は走りたい気持ちを抑え、いつもよりも大股で廊下を歩いた。


 なぜ智也がこんなに必死になっているのかというと、答えは単純なものだ。

 あの、教室に戻るまでに見せた莉李の表情が気になったから。震えながらも、無理に笑おうとするあの笑顔が気に入らなかったからだ。

 いつものような呑気な笑顔ならよかったのに。なんて、散々『呑気』さを指摘していた智也がそんなことを思うのは、何とも矛盾しているような気もするけれど、時に自分本位にも考えたくなるもので。

 心配だから、との考えに至らないのは、智也の性格上仕方がないとしか言いようがない。



 智也が下駄箱に着いた時、そこに莉李の姿は見当たらなかった。あれだけ、校内で掴まえたいと思っていたはずなのに、智也から焦りの色は見られない。焦ったところでどうしようもないと思っているのかもしれない。焦りは見られないけれど、智也は靴を室内履きから外履きに履き替えると、すぐに駆け出していた。

 走ってはいけないとされる区域を越えたのだからいいだろう、と言わんばかりに。





 学校を出ると、学生が同じように坂道を下っていた。

 HR終了直後の廊下に溢れる学生ほどの人数はいないけれど、同じ制服を着た同じ年頃の人が集まるだけで撹乱される。

 その中から、腰ほどまでに伸びた黒髪の学生を探す。その程度の特徴であれば他にも似たような学生はいるのかもしれない。けれど智也は、そんな中からでも莉李を見つけられる自信があった。見える世界がモノクロで、彼女だけ色づいて見えるような。黒髪で、冬服の暗い色の制服を着ている彼女に、モノクロを当てはめるのも不思議な話だけれど。そう、少し前を長い髪を靡かせながら歩く女性が、色褪せた世界を彩るように————と、彼女だ。目の前に、探していた彼女がいる。


 莉李は一人で歩いていた。

 ほんの少し歩く速度が速いような気がするけれど、智也がいつも通りに歩けばすぐに追いつくようなスピードだ。

 先を歩いていた莉李をやっと目視できるまでに近づいたにもかかわらず、智也はそれ以上の距離を詰めようとはしなかった。

 姿を見つけることに重きを置いていたため、その後のことは何も考えていなかったのだ。

 今更声をかけるのはどうなんだろうかと、かけるとしても何と言えばいいのかと、智也はそんなことを考えていた。


 彼女に追いついて、智也の存在に気づくと、おそらく彼女は「どうしたの?」と訊ねるだろう。それに対して、当たり障りのない返答は? 俺もこっちに用事があって、とか?

 それがいかに自然なやりとりだったとして、自然にやってのける自信は、智也にはなかった。


 智也が出した答えは一つ。

 声はかけずについていく、だ。


「……って、これじゃあストーカーみたいじゃないか」


 呟くように悪態をつく。それでも進行方向は変わらず、歩みも止めなかった。

 気づかれないように、適度な距離を保つ。

 彼女が少し速く歩いているとはいえ、歩調を合わせて歩くもどかしさは感じていた。



 莉李の進路は駅を向いているようだった。

 思えば、カバンに定期をぶら下げているのを見たことがあった。なるほど、電車通学なのかと改めて思う。斯く言う智也も電車通学なのだけれど、行きも帰りも莉李に遭遇したことはなかった。単に時間が違うからか、逆方向なのか。学校からの最寄駅に入ってくる電車は一路線しかないため、どちらかの可能性しかない。

 智也としてはどちらでもよかったし、電車通学だということすら今になって気づいたのに、今更気にするのも不思議な話だった。


 今はそんなことを考えている場合ではない。集中しよう。

 再び莉李に視線を戻す。彼女との距離に変わりはなく、彼女自身にも特に変わった様子は見られない。

 智也は考えすぎだっただろうか、と頭を掻いた。手を下ろすタイミングで、一つため息をつく。深いため息だった。あまりに慣れないことをしているため、疲れたのだろうか。張り詰めていた気を一旦落ち着かせるためなのかもしれない。

 けれど、目線を上げた智也は再び周りに気を配った。莉李だけではなく、周囲にも視線を走らせる。

 学校から少し距離が離れたので、学校周辺ほど同じ学校の生徒は見られない。もちろん、同じ電車通学の学生は目的地が一緒なため、ちらほらその姿は見受けられる。

 その中に混じって、私服や、営業中なのかスーツを身に纏っている人もいた。

 見渡す限り、全てを把握できるわけではないけれど、その中でも一人、智也の目に付く人物がいた。感じたのは違和感だ。

 先程から智也の目の前を歩いている男性がいた。ずっと進行方向が一緒だということを、智也は少し前から気がついていた。

 その点に関して、さしておかしなところはない。目的地に向かう道がたまたま一緒なこともあるだろう。もしくは、目的地そのものが同じなのかもしれない。


 違和感は、その距離にあった。

 智也は莉李との距離を保つために、ゆっくりと歩いていた。普通に歩けば、すぐに追いついてしまうそのペースを、随分と落としている。

 目の前の男性も、そんな智也のペースとほとんど変わらないほどの歩みだった。身長は低くなく、その足の長さから言って、歩幅も狭くないだろうに距離が縮まらない。通常なら、すぐに追いついて、そのままどんどん距離が離れていてもおかしくはないのに。

 気を張りすぎて、些細なことをも気にしすぎてしまっているのだろうか。


 他に同じような人がいないかと、違う方向にも目を向ける。

 考えすぎを言及されるかのように、他におかしな点も、人物も認められなかった。


 首を傾げながらも、智也は前方へと目線を戻す。目を向けた時には、再び莉李を見失っていた。

 一瞬の出来事だった。

 しまった、と思ってもすでに遅し。


 もっと悪い状況は、先程違和感を感じた男性もまた、その姿を消していたということだ。

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