3-9 不甲斐ない

「おい、いつまでしているつもりだ?」


 不意にかけられた声に、それまでこの場を占めていた空気が変わる。

 聞き慣れている音のような気がするけれど、声の雰囲気はいつもよりも穏やかだった。

 そんな声色の空気に流されるように、緊張の糸が解れていく。

 もたらされる変化に安堵したのか、もしくは不満に思ったのか、莉李のすぐそばでため息が漏れる。どうやら後者のようで、紫希は莉李の肩に顎を乗せたまま言葉を紡いだ。


「九条、邪魔しないでよ」


 無粋でしょ、と言いたげな顔を九条へと向けながら、それでも大人しく莉李を解放する。

 莉李に向かう紫希は、九条に見せていた顔とは一変、穏やかな表情を浮かべていた。「大丈夫?」と優しく声をかけられた莉李は静かに頷く。頷いてはみたけれど、それまで触れていた温もりが離れ、そのことに少し、ほんの少し寂しさを感じていた。


「で、何で九条がここにいるの?」


「生徒会室に用事があって行ってみたら、アヤともう一人学生がいて。何やら不穏な空気だったから話を聞いていたんだ。で、それが終わったんで、お前に声をかけに来たというわけだ」


「それはありがとう」


 棒読みで返す紫希に、九条は眉間のしわをさらに深く刻む。そのまま声を低めた九条は「もう戻ってもらっていいか?」と、律儀にも紫希の指示を仰いだ。


「うん。今回はそれでいいよ。ありがとう、九条」


「遠野にもお礼言っとかないと」とそう言いながら、紫希は九条から莉李へと視線を移動させた。


「莉李ちゃん」


「あ、大丈夫です。私もそろそろ戻らないと」


 紫希の言わんとすることを読み取ったのか、彼の言葉を待たずに莉李が口を開く。それに続けて、莉李は感謝と謝罪の言葉を繰り返した。


「本当は、教室まで送り届けたいところなんだけど……」


「生徒会長自ら、授業をサボる手本を見せるというのか?」


「そんなわけで、九条面倒な人に捕まっちゃったから。本当にごめんね」


「面倒で悪かったな」


 不服そうに九条がぼやく。そのいつもと変わらない二人の会話に、莉李が安心したように笑みを見せた。

 そんな莉李の表情に、紫希も穏やかな空気を全身に纏わせる。


「あ、でもさっきの人は…」


「心配しなくても大丈夫。恐らくもう遠野が注意してくれてるだろうから。さっきも言った通り、もう戻ってもらうよ」


「よかった」


 先ほどよりもホッとしたように呟く言葉に、紫希も九条も眉を下げた。二人がどうしてそんな表情を自分に向けるのか、莉李はわからずにいた。

 けれど、二人ともそのことについては言及せず、


「成瀬も、本当にそろそろ戻った方がいい。ここからだと、教室に戻るのにも時間がかかるだろう」


 と、九条が教室までの道のりが最も遠い莉李を慮った。


「あ、はい。九条先輩も巻き込んでしまって、すみませんでした」


「いいから。ほら」


「じゃあ、失礼します」


 会釈をしてから、莉李は階段を下り始めた。心なしか、いつもよりも慎重に階段を踏みしめている。

 そんな莉李の後ろ姿を見送った後、九条が紫希に声をかけた。


「珍しいな。お前が成瀬の件であっさり引き下がるなんて。どういう心境の変化だ?」


「別に。さっきの子はただ急いでたんでしょ。急に飛び出してくるのは良くないけど」


「それだけか? それに、修学旅行の件についても何も言わなくなったし」


「その件は……根本的解決法を見つけただけ」



「?」


「そんなことより、早くしないと。直々にサボるお手本を見せるつもり?」


 仕返しとでもいうように、紫希がいつもの調子でほくそ笑む。

 もちろん、そんな紫希の様子に、九条のこめかみがピクリと動いたのは言わずもがななわけで。それでも、紫希が言っていることに一理あると、時計を一瞥しながらため息をついた。


「何でもいいが、あんまりないことはしてくれるな。これでも、調子が狂うんだ」


 そんなぼやきを残して、九条は生徒会室の方へと踵を返した。

 九条の後ろ姿を眺めながら、紫希が「ありがとう」と呟いていたことなど、九条は知らない。






 ***





 二人と別れ、職員室での用事を済ませた莉李は、少し歩くスピードを上げていた。

 ほどに急ぐ必要もないけれど、ゆっくりしている時間もない。

 時間配分を考えられるほどには、落ち着きを取り戻しつつあった。————いや、正直なことを言うと、莉李は先程とは違う事柄に頭を占領されていた。


 少しでも冷静になったからこそ、数分前の出来事を反芻できるようになっていた。

 階段の一番上から突き落とされる形で体が投げ出され、一歩間違えれば大けがに繋がっていたであろう出来事を————ではなく、その後の紫希に対しての自身の行動についてだ。

 それは、赤面するような可愛らしい感情ではなく、これまで散々扱いを雑にしていたにもかかわらず、時だけ縋ってしまった都合の良さを恥じていた。

 おそらく紫希はそんなこと気にしていないし、莉李を咎めるようなことはしないのだろうけれど、それはそれで甘えのような気がして、やはり自分を許せなかった。


 階段を全て下り切ったとき、そんなモヤモヤを払拭するように首を振った。

 マイナス思考は良くないと自分に言い聞かせるように。


 前を向き、教室のある校舎へと戻るために、渡り廊下を目指す。

 階段からすぐのところにある渡り廊下に差し掛かると、そこには見知った顔があった。


「あれ、対中くんどうしたの?」


 智也は渡り廊下の入り口のところに立っていた。壁にもたれるような体勢で、莉李の声に視線だけを向ける。

 その目に莉李を確認すると、背もたれから離れ、莉李の方へと手を差し出した。


「……それ、貸せ」


「?」


 莉李の問いかけには答えずに、智也はぶっきらぼうに言葉を向けた。

 智也の行動の意図がわからない莉李は、首を傾げながら、“それ” が何を示すのかを考える。その間も智也は、手を莉李の前へと伸ばすだけ。


「あ、もしかして運ぶの手伝ってくれるとか?」


 パッと表情を明るくした莉李に、智也はバツが悪そうに、黙ってそのまま莉李の手から資料を奪い取った。すぐさま顔を逸らし歩き出した智也に、莉李は嬉しそうに「ありがとう」と告げる。

 そんなに重いものでもないのに、わざわざ足を運んでくれたことに、莉李は単純に嬉しい気持ちになったのだった。


 と、ぼんやり立ち止まっている暇はない。

 莉李は、少し先を歩く智也の背中を追った。





「……」


「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」


 先を歩く智也に追いついたところで、隣から視線を感じた。智也の顔は進行方向を向いていて、目だけを莉李の方へと寄せていた。


「その……大丈夫か?」


「? やっぱり、何かついてる?」


 そう言って徐に顔を触り出した莉李に、智也の足が止まる。

 立ち止まり、今度は顔ごと莉李の方を向いた。その表情は呆れているような、安心しているような何とも形容し難いもので。

 そんな智也を見つめていると、目の前の彼は盛大にため息をついた。


「あんま無理すんなよ」


「うん? ありがとう」


 よくわからないまま首を傾げつつも、莉李はお礼の言葉を口にする。

 莉李としては、智也から続く言葉があると予想していた。ツッコミなり何なり、何かしらアクションがあるものだと思っていた。けれど、莉李の予想に反して、智也は口を閉ざしたまま。智也の次なる言葉を待ち、その姿を眺めていた莉李を置いていくように止めていた足を再び動かし、智也は先を進んでいた。

 ふと我に帰り、そのことに気づいた莉李も慌てた様子で智也の後を追う。

 二人の距離に差はあれど、智也も気にかけてくれていたのか歩みはゆっくりで、追いつくまでにさほど時間はかからなかった。


 渡り廊下を進み、自分たちの教室がある校舎にたどり着くまで、莉李と智也の間に会話はなかった。けれど、その沈黙も気まずさはなく、莉李の歩幅に合わせて歩いてくれている智也の優しさを感じていた。



 渡り廊下が終わり、階段へと向かっている最中に、休み時間の終了を告げるチャイムが聞こえた。

 その音は、智也の耳にも届いているだろうに、急ぐような素振りは見られない。

 おそらく、担任からも遅れていいと許可が出ているため、悠長に構えているのだろう。

 莉李は、少々良心が痛みながらも、智也を急かしたりはしなかった。


 遅れないに越したことはないけれど、やはりその速度を上げない。

 けれど、同じように廊下を歩いている学生たちはそうはいかなかった。


 雑多な音が廊下に鳴り響く。

 授業が始まる前に教室に駆け込もうとしている学生の足音。

 次の授業の教科担当が、猶予を与えるかのようにゆったりと歩く音。


 様々な足音が響く中、パタパタと規則的な音を奏でながら、一人の学生が慌てたように莉李たちを追い越していった。莉李のすぐ横を通り抜け、足早に去っていく。

 廊下は狭くないとはいえ、広さに余裕があるわけでもなく、ましてスピードが出ている相手が横を過ぎると、その感覚は思った以上に近く感じた。


「危ないな。大丈夫か?」


「う、うん。びっくりしたけど、当たってはないから」


 智也の問いかけに、いつもと変わらない口調で返す莉李に智也は安堵した。そのまま目線を前に戻そうと、視線を下げた智也の目に、莉李の手が映る。

 智也は再び、莉李の顔へと視線を向けた。莉李の表情を確認し、再び手に目線を戻す。


 莉李の表情はいつもと変わりはなかった。変わらないように。けれど、その手は震えていた。よく見ないとわからないほど微小なものだったけれど、智也の目にはそれがはっきりと映っていた。


「……大丈夫じゃないだろ」


 智也は苛立つ気持ちを、小さくぼやいた。

 莉李には聞こえないように、本当に小さく小さく呟いたので、おそらく莉李の耳には届いていないだろう。


 苛立ちは徐々に加速していく。

 その矛先は莉李に向かっているわけではない。先程の学生でもなければ、飛び火して赤髪の彼というわけでもない。————自分自身に、だ。


 相変わらず、言葉足らずなところがよくなかったのかもしれないけれど、それを棚に上げたとしても、無理して笑っている彼女に————無理をさせてしまっているということに、不甲斐なさを感じる。

 


 じゃなく、俺を頼ってほしいのに。

 俺を頼ればいいのに。

 俺には頼れないということだろうか。



 そんな考えが脳内をぐるぐると回って、2周目に差し掛かろうとした時、智也は不意に莉李の方へと視線を向けた。



 ————何で俺、こんなこと考えてるんだ?

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