3-5 二度目はない

 満月に照らされ、真っ黒で大きな羽根が輝く。

 右手には身体よりも倍はあろうかと思しき鎌を持ち、反対の手には小さな女の子が身体を預けるように抱き抱えられていた。

 目線を上げると、薄気味悪く笑う口元が目に入る。けれど、合っているはずの目は少しも感情が見えず、その笑みを余計に不快に思わせた。


『何でこんなこと……』


『……からだよ』


『返せ! 俺の………を返せ!』


 余裕綽綽な羽根を持つ人物に対して、目の前の人物は怒号を響かせる。その叫び声には悲しみも含まれていて、聞いているだけで痛々しい。


『その怒りも、悲しみも憎しみも。僕がこともできるけど?』


『ふざけるな! ……を返せ!』


『普通に会話もできないのか』


 羽ありは呆れたようにため息をつく。けれどそれとは相反して、目の前の苦しみをも楽しんでいるかのように、口角を上げたまま笑みを隠さない。


『まぁ、十分楽しませてもらったよ。君とはまた会えるといいな』


 そう口にすると、抱えていた少女を怒り狂う彼の方へと放り投げ、闇の中へと消えていった————




————————————————

————————




「はぁ……はぁ………」


 飛び起きるように目を覚ました智也は、辺りを見渡す。

 白を基調とした壁と天井に囲まれた部屋。部屋の真ん中にはローテーブルが置かれていて、それとは別に勉強机も壁際に配置されていた。その上には写真立てが飾られていて、そこに写る人物に安心感と罪悪感が心を埋め尽くしていく。


 智也は、そんな感情を再び奥底へと仕舞うと、そのまま額に手を持っていく。触れてすぐ湿り気を感じて、改めて焦燥感を認識した。


「嫌な夢を見た……」


 どれだけ時間が経っても、のことは鮮明に思い出された。少しも色褪せてはくれない。

 いっそ全て夢であってくれたなら。本当に、夢であってくれたなら。そう思わずにはいられないのだけれど、聞こえてくるはずの声も、ドアからこっそりと覗かせていた顔も、今はどれもなくなってしまったことに、ただただ現実を突きつけられるのだった。


「だから、せめて……」


 のそのそと起き上がろうとしたタイミングで、一階から母親の声が聞こえてきた。どうやら朝食に呼ばれているらしい。


「今度こそ……桃香、ごめんな」


 写真立てに触れ、一つ息を吐き出すと、智也は部屋を出た。




***




「おはよ」


「対中くん、おはよう」


 自席にて、鞄から教科書を出していた莉李に声がかかる。莉李より少し遅れて登校してきた智也から朝の挨拶があり、莉李もそれを返した。

 智也の方から声をかけてくれるようになって時間は経つのだけれど、莉李にとってはいつまでも嬉しいもので。それが挨拶でも何でも。その気持ちが顔に出て、莉李は満面の笑みを智也に向けていた。


「……何、その顔。何かいいことでもあったのか?」


「うん、今」


「は?」


 ニコニコと笑顔を向けてくる莉李を、智也は眉間にシワを寄せて見つめる。「相変わらず、呑気なのな」と悪態をつくけれど、その言葉は以前ほどの厳しさを帯びてはいなかった。

 そんなのほほんとした雰囲気に反して、何やら慌ただしく響く足音が近づいてくる。遅刻ギリギリという時間でもないし、急ぐ理由は他にあるのか。

 その音は他の学生の話し声やら、登校中の足音やらにかき消され、二人は全く気づいていない。そして、その足音は、そのまままっすぐ二人の元へと向かってきた。


「成瀬さん、大丈夫だった?」


 挨拶をすっ飛ばし、勢いそのままに秋葉が早口に言葉を発する。

 突然声をかけられたことに驚きを隠せない莉李は、目を丸くしながらも「おはよう」と口にした。

 あまりにも急で、問われていることがわからないといった表情を浮かべる莉李に、秋葉が「昨日の!」と強調した。そこでやっと理解した莉李は「大丈夫だよ」と返答しながら、腕を動かしたり、手のひらと手の甲を交互に見せたりして、けがも傷もないことを示す。————あのの件は別として。


「後からけがしていることに気づくこともあるから、と思ったけど。何もなくてよかった」


「何かあったのか?」


 ほっとしたところに、智也の声が耳に入る。そこで初めて智也の存在に気づいたのか、秋葉が「対中くん、いたの」なんて少し失礼なことを口にする。けれど、その点について智也は気にするそぶりもなく、「何があったんだ?」と秋葉ではなく、莉李に詰め寄った。


「全然、大したことじゃなくて……」


「工事現場の近く歩いてた時に、足場が落ちてきたのよ」


「えっ」


 わざわざ言うことでもない、と莉李が言い澱んでいる間に、秋葉が割って入る。まるで、何を勿体ぶっているのかと言わんばかりに。

 秋葉の言葉に、智也は眉を下げて莉李を見つめた。心配そうにこちらを窺う智也に、莉李も表情が曇る。


「あ、でも当たったとかなくて。他に歩いてる人もいなかったから、誰もけがとかはなくてね」


 自分が危ない目に遭ったはずなのに、他の人の心配をする莉李に、智也はため息をつく。

 ため息をつかれる理由がわからない莉李は、どうして? というような顔で秋葉に救いを求めた。

 そんな二人の様子を達観していた秋葉が、智也に同情しつつも、ニヤリと笑みを浮かべた。


「対中くん、よく見ててね」


「?」


 そう口にすると、秋葉は莉李の手を取り、かと思えば制服の袖のボタンを外し、そのまま一気に肘の辺りまで腕まくりをした。


「ちょっ!」


「はい、確認して。けがはありませんね?」


 戸惑いを隠せない莉李と智也を尻目に、秋葉の暴走は止まらない。反対側の腕も同じように捲り上げると、「見ろ」と言わんばかりに智也の方に差し出す。


「さすがに足は無理か」


 そう言いながら、膝丈のスカートを膝が見える程度に上げる。とはいえ、その下は黒のタイツを履いていて、彼女のには不適当だ。


「勘弁してくれ……」


 その声に、秋葉が智也の方を見ると、智也は顔に手を当て、顔を逸らした上で目も閉じていた。

 よく見ててね、と言っておいたのに。と不服に思う秋葉だったけれど、この状況では智也の肩を持ちたくもなる。秋葉のセクハラまがいなものを、目の前で見せられているのだから。

 被害者は智也だけではなく、もちろん莉李もその一人で。いや、第一被害者と言っても過言ではない。

 自分が赤面していることを自覚している莉李は、秋葉の腕から逃れ、捲り上げられた袖を元に戻していく。


「本当に大丈夫なんだな?」


「うん。心配してくれてありがとう」


「別に。そんなんじゃない」


 別の意味で照れている二人の、見ているこっちの方が恥ずかしくなるような雰囲気に、秋葉が咳払いをする。


「でも、最近何かと不運だね」


「不幸中の幸いとも言うよ」


「他にも何かあったのか?」


 莉李と秋葉の会話に、いまだに節目がちな智也が二人の方に顔を向ける。もちろん、目は合わない。


「窓ガラスが割れたでしょ? あの時、成瀬さん近くにいてね」


「え……」


「ほらこれ」と莉李の手を取り、負傷した指を見せる。

 そこでやっと目線を上げ、その手をマジマジと見つめながら、智也は無意識に手を伸ばしていた。けれど、智也の手は莉李に触れる前に秋葉の妨害に遭う。


「お触り禁止です」


「あ、悪い」


「いや、真面目か」


 そんな二人の会話に、コントを見せられているような気分になる莉李は、もはや苦笑いを浮かべるしかなかった。





「あれなら、祓ってもらった方がいいんじゃないか?」


 智也が真剣な表情で莉李に向けた言葉を、莉李は思わず吹き出すように笑った。


「何?」


「いや、初めて会った時のこと思い出して」


「あれは……悪いと思ってる」


「あ、全然。気にしてるとかじゃなくてね」


「あながち、間違いでもないけど」


「ん? 何か言った?」


「何も」


 智也の言葉を聞き取れなかった莉李は、首をかしげる。

 それに対し、口を開こうとしない智也の代わりに、秋葉が得意げに胸を張って莉李を見た。


「『今度危険な目に遭いそうになったら、俺が守ってやる』って言ったのよ」


「もうお前はちょっと黙ろうか」


 二人のやりとりはやはりコントのようで、莉李は満面の笑みを浮かべ、今度は楽しそうに笑った。





***





「もっと上手くやれないかなぁ」


 月が雲に隠れ、明るさを灯すものが何もない暗闇の中でも、風に靡かれる銀色の髪が闇夜に光る。

 人影はそこにしかなく、呆れたようにため息を吐きながら、独り言のようにぽつりと言葉が呟かれた。


を仲介すると、どうしてこうも上手くいかないのか。傷つける必要はないんだよ。———いや、むしろ傷つけたくなんかない。そのための……なんだから」


 もう一度息を吐く。暗く寒い空気中に、白い吐息が産生される。その白い靄のような水蒸気が、1秒にも満たないうちに消え去るのと同じように、銀髪の人物もまた、次の言葉を残してその気配を消した。


「まぁいいや。どうせ、次はない」

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