3-2 わからない

「————と、ここはこうなるからして」


 小さな身体から爆音を轟かせていた虫から種々様々な音色を奏でるものへと変わり、鳥たちが冬籠りの準備を始めた頃。静けさの中で、授業をする先生の声と板書、そしてそれを写しとる音だけが響いていた。


「ここはよく試験に出るから、よく覚えておくように」


 そんな先生の声に、ぼんやりとしていた学生もペンをとる。

 しかし、タイミングがいいのか悪いのか、やる気の腰を折るようにチャイムが鳴り、授業の終わりを告げた。


「修学旅行に浮き足立つのもいいが、帰ってきたらすぐ実力テストだから。気を抜きすぎるなよ」


 捨て台詞のようにそんな言葉を吐き捨てると、教科担当の先生は教室を後にした。

 先生が言っていた通り、修学旅行から戻ってきてすぐに実力テストが待っている。2年生にとっては何とも盛り沢山なスケジュールではあったのだけれど、だからと言って特に何かが変わるわけでもなく————案に、実力テストは実力で受けるものだということではなく————ただ、非日常が続くことに、疲労が溜まらないことを願うだけだった。


「莉李、お昼いける?」


「うん、ちょっと待って」


 美桜がお弁当を持ってお昼ご飯の誘いにやってきた。その横には秋葉もいる。すっかり輪の中に入った秋葉も、最近ではお昼ご飯を共にするようになっていた。秋葉の手にもお弁当を入れたトートバックがあり、各々お弁当を持参している彼女たちは教室内で食べることもあれば、中庭や屋上など場所を変えてお昼休みを堪能することもあった。簡単に言うと、その時の気分次第というわけだ。


 この日は別の場所でという話になり、二人が莉李を迎えに来たわけだけれど、莉李の机の上には開かれたままの教科書が置かれていた。おまけに頭を抱えているようで、その光景はとても珍しく思えた。


「成瀬さん、どうしたの?」


「ちょっと、この問題がわかんなくて……」


「成瀬さんでもそういうことあるのね」


「物理はちょっと苦手で…」


 そう言って、再び教科書に目線を戻した莉李だったけれど、二人を待たせているという焦りが、さらに考える余裕を奪う。それに、残念なことに問題は逃げないけれど、お昼休みは刻一刻と終わりへと向かっていく。

 自分のために貴重な時間を潰すのは申し訳ないと思い、莉李は付箋を取り出すと、目印代わりに開いているページに貼り付けようとした。


「ちょっと待って」


 まさに今、付箋を一枚剥がそうとしたところで、秋葉の制止が入る。どうしたのだろうか、と秋葉に視線を移すと、何やらほくそ笑んでいるではないか。その笑みは、彼女が何か企んでいる時の顔だ。

 けれど彼女の視線は、莉李には向いていなかった。美桜の方を見ている風でもない。


「何?」と不意に聞こえてきた声は、智也のものだった。秋葉の視線を追うと、確かにそれは智也の方に向いている。物言わぬ秋葉の視線に、聞きたくはないけど、というニュアンスが智也の言葉には含まれていた。けれど、彼は意外と素直なので、訳のわからない秋葉のアイコンタクトに、大人しく腰を上げ、彼女たちの元へと近づいた。


「対中くん、物理得意でしょ?」


「は?」


 急に何を言い出すかと思えば、やはりロクなことではなかった。無茶振りもいいところだ。

 その発言に莉李は驚いた表情を浮かべたけれど、すぐさま秋葉の魂胆を理解し、すかさず智也に弁解を試みた。けれど予想外なことに、最初は怪訝そうに眉を潜めていた智也も、「どこ?」と秋葉から莉李へと視線を移動させた。


「えっ」


「だから、わかんないとこどこ?」


「あ……えーと、ここなんだけど」


 おずおずと智也の方へと差し出した教科書を、智也は覗き込んだ。莉李のすぐそばで。

 その距離感に驚いたのは、美桜と秋葉で。莉李はというと、特にいつもと変わった様子もなく、智也の隣で教科書を眺めていた。


「これは、この公式を使って。で、この値が出てきたら、この法則で————」


「うーんと……あ、本当だ! できた!」


 考える時間はとても短いものだった。問題を見てすぐに説明を始めたのではないかと思うほどに。そして、その説明もとても簡単なもので。けれど、莉李にはそれで十分だったらしく、智也の説明を受け、すぐさま簡単に流れだけを書き記していた。

 その作業が終わると、教科書から顔を上げ、「ありがとう」と智也に笑顔を向けた。

 智也は相変わらずの無表情だったけれど、そこに少しの照れが見えるような気がするのは、彼が馴染んできたからなのか、それともこちら側が彼に慣れてきたからなのか。そのどちらにしろ、彼の人の良さを感じるには十分で、莉李はもう一度智也に感謝を述べ、次いで美桜と秋葉にもお礼と謝罪の言葉を口にした。

 しかし、秋葉は腕を組み、何やら頭を捻っている。


「どうかした?」


 そんな莉李の問いかけに、秋葉は何かに気がついたように手をぽんと叩いた。


「制服が白になってる!」


 秋葉は智也の方を指差しながらそう口にした。声が弾んで聞こえるのは、新たな発見をした気持ちになっているからだろう。

 これまで智也は、編入前の黒い学ランを着ていた。文化祭が終わる前には新しい制服を入手していたのだけれど、変えるタイミングを逃していた。文化祭が終わってすぐだと、何だか図ったような気もするし。それも考えすぎなのでは、なんてことをグダグダと考えているうちに、本当に機会を見失いそうになっていたのだ。だからこそ、敢えて週の始まりでも何でもない日に白学ランデビューを迎えたのだ。なるべく触れられないように。

 それを、一番面倒くさそうな秋葉に触れられるなんて。なんとも災難である。しかももうお昼の時間で、今更感も否めない。


「そんな照れなくってもいいって。似合ってるよね?」


「うん。黒もかっこよかったけど、白いのも似合うね」


 同意を求められた莉李は素直にそう答える。けれど、智也としてはそれはさらに恥ずかしさを助長させるもので、「いいです。触れないでください」なんて、智也らしからぬ喋り方をしていた。


「でもそっか。あの制服って、相当な進学校でしょ?……対中くんって、もしかして賢い人?」


 秋葉は智也にそんなことを訊ねた。この発言を受けて、先ほどの秋葉の言葉がいかに無責任なものだったのかが露呈されたわけだけれど、そのことについて誰も気にしていないのか、秋葉をはじめ、莉李も美桜も智也の方へと視線を向けていた。


「別に」


 智也の言葉は、謙遜でも、照れ隠しでもなく、初対面の時と同じような無骨さを帯びていた。だからなのか、秋葉も「そんな謙遜しなくても」なんて茶化すようなことは言わなかった。その代わりに、秋葉にしては珍しく真面目な表情を浮かべて


「来期は、成瀬さんと一緒に生徒会入りしたりして」


と口にした。秋葉の言葉を不思議そうに聞いていた智也は、「来期?」と意外にも話に食いつく。


「生徒会の入れ替わりってこの時期なのか?」


「うん、3年生は受験もあるから。次は1、2年生だけで決まるよ」


 智也の質問に、代わって莉李が回答する。生徒会に興味があるのだろうか、と智也の次なる言葉を待っていたのだけれど、智也は口を開くことなく、視線をそらしながら肩を下ろした。




 ————学年が違うあいつとの接点は『生徒会』だけのはずだ。つまり、それがなくなれば接点がなくなる。接点がなくなれば終わりか? いや、そんな単純な話じゃ……不可解な点は残っている。というか、わからないことだらけだ。わからないうちは、目を離すわけには………


 そんなことを考えながら、智也は莉李を無意識に見つめていた。智也の視線に、莉李が首を傾げながら、焦点が合っているのかどうかわからない智也の目を見る。


「はいはい、見つめ合ってるとこ悪いけど」


「ちがっ!」


 2人の間を割くように、秋葉が割って入る。

 そんな秋葉の言葉に我に帰ったのか、智也が焦ったように弁解を始めた。

 けれど、そんな智也の言葉を秋葉が聞いてくれるはずもなく、一人あたふたしている智也を放置したまま、莉李と美桜を連れて教室を後にしたのだった。

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