2-10 終幕、終わりは始まりに(後編)
その声には聞き覚えがあった。
声だけではない。背中に加わった重みも、何だか少し懐かしさを感じる。
そんなことを考えられるくらいには落ち着いていて、だからこそ視界を覆う暗闇が、声の主の手によって作られていることがすぐに分かった。そう、いわゆる目隠しをされている状態だ。事件でなければ、こんなことをする人物は一人しか思い浮かばない。何より、後ろから抱きしめられた腕の感触を、莉李は嫌と言っていいほどよく知っていた。
「紫希先輩」
腕をはがし、紫希の方へと振り返る。
そこには見慣れた顔。けれど、数日ぶりに見る紫希がいつものようにヘラヘラとした笑顔を浮かべて立っていた。
「やっと莉李ちゃんに会えた」
「急にあんなことされたら驚くのでやめてください」
「急じゃなければいいの?」
返ってきた言葉に、やはり紫希は紫希だと、さも当たり前のことを思い、莉李はため息をつく。
数日会っていないからと言って、そう簡単に人が変わるとも思わないけれど。でも今は、そのことにほっとする自分もいて、何とも不思議だと思うのだった。
「先輩も観劇にいらっしゃったんですか?」
久しぶりの再会があまりにも突然すぎたことに、少々戸惑ってしまった莉李は、何とも当たり障りのない言葉をかける。
莉李の言葉に、紫希は少しだけ笑った。莉李は、彼がどうして笑ったのかわからずにいた。何もおかしいことは言っていない、と思うし。であれば、行動が変だっただろうか、とも考えてはみたけれど、やはり別段おかしいところはない。と思う。
判然としないうちに、紫希はまたしても笑った。
「ここに来れば、莉李ちゃんに会えると思ったから来たんだよ」
「?」
用事ですか? と言葉を続けようとしたところに、次のプログラムが始まるというアナウンスが入る。
ざわついていた体育館内も、徐々に静けさを取り戻しつつあった。
「先輩はこの後……」
「ついてきて」
どうするんですか? と続くはずだった言葉は、またしても遮られる。
紫希は莉李の返事を待つことなく、腕をとり、歩みを進めた。どこに向かっているのかはわからない。
なんてことを考える暇もないほどに、目的地にはあっという間についた。そんな大袈裟なものでもない。紫希が連れてきたのは、体育館裏だった。
そこにたどり着くと、一気に気が抜けたように、紫希はその場に膝を崩すように座り込んだ。
腕を持たれたままだったので、その勢いに莉李もしゃがみ込む形となる。あまりに突然のことに驚き、そのまま紫希の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?!」
「……本物の莉李ちゃんだ」
腕を掴んでいた紫希の手が、莉李の手へと移動する。
その温もり、感触を確かめるように手を握ると、紫希の表情が綻んだ。そんな不可解な行動への疑問よりも、体調が悪いわけではないのだと確認できたことに、莉李は安堵する。
「大袈裟な……」
「大袈裟じゃないよ」
そう呟いた紫希は、まるで小さな子どもが拗ねているような口調だった。
心なしか、口を膨らませているようにも見える。実際は、そのようなことはしていないのだけれど。
そんな紫希の顔を見た莉李は、眉を下げて笑うと、紫希の横に腰掛けた。
表で楽しいことをやっている分、体育館裏に人影などなく、遠くの方から聞こえる楽しそうな声だけが響いていた。
紫希は、彼にしては珍しく静かだった。
「そういえば先輩」
その沈黙に耐えきれなくなったように、莉李が言葉で遮る。
彼女の問いかけに、「何?」と紫希がいつもの口調で返す。その返答に、莉李が静かに肩を下ろした。
「先輩は卒業したらどうするんですか? 進学?」
握られた手はそのままに、莉李は気になっていたことを紫希に訊ねた。
思えば、彼のその手の話はこれまで全く聞いたことがなかった。本人はおろか、学年一位の学力を持つ彼のことを噂ですら耳にしたことがないのだった。
「それについて、君に答えられることはないよ」
「それは……」
まるで突き放すような紫希の言葉に、抗うように彼の手から離れることを試みる。けれど、反射的に彼はその力をさらに加えた。
力に勝てない莉李は仕方なく、そのまま言葉を続ける。
「私には教える必要がない、と。そういう意味ですか?」
「ちょっと違うけど、それでもいいよ」
「答えになっていません」
「そんなことよりさ」
不機嫌を全身に纏う莉李を気にすることもなく、紫希は安易に話題を変えようとする。もちろん莉李があの程度の理由で納得するはずもなく。けれど、ここで食い下がったとして、何の意味も持たないということを彼女は理解していた。ただ、教えてもらえると思っていた自分の傲慢さのようなものを感じ、自己嫌悪には陥ることになるのだけれど。ひとまずここは大人しく、紫希の言葉に耳を傾けることにした。
「莉李ちゃん、あの時編入生くんと何を話していたの?」
「? あの時? どの時ですか?」
「昨日、教室で……」
その言葉に莉李はさらに首を傾げる。
紫希の言葉を反芻しながら、昨日の出来事を思い出そうとしていた。
確かに昨日、教室で智也と話してはいたけれど、一体どのことを言っているのだろうか。
「何だか、楽しそうに話してた」
「? 何だろう……先輩の話してた時かな?」
「え、俺? それは何の話だろ?」
「詳しくは聞かないでください」
そう言って顔を逸らした莉李の横顔は何だか赤く見えた。気がする。夕焼けに照らされているから。そう言われれば、そう見えなくもないけれど。そう見えることが紫希の願望であったとしても、紫希にとってその答えがどちらでも構わなかった。
「ちょっと機嫌直った」
「それは、よかったです…?」
繋がれた手に力が込められる。
そもそも機嫌が悪かったのか、という疑問は置いておいて。改めて、触れられている手を見つめ、手を握られるなんてこと初めてであるように思えて、莉李は急に恥ずかしさを覚えた。
「対中くんと言えば、王子カッコよかったですね」
気恥ずかしさを隠すように、「劇、観ました?」と先ほども投げかけた質問を繰り返す。そんな彼女の言葉に紫希の返事はない。ただ、莉李は莉李で答えを待たないまま、饒舌に語り始める。莉李にしてはとても珍しく、言葉はとめどなく溢れ出る。
「特にあのシーンよかったですよね!」
「『雪のように真っ白に透き通った肌』」
「え……」
莉李の言葉を遮るように紫希の声が届く。不意をつかれた発言にうまく聞き取ることができず、紫希の方へと振り向くと、真剣な瞳と目が合う。瞳だけではない。表情、纏う空気、そのどれもがいつもと違う何かを帯びていて、莉李は息を飲んだ。身動き、という行為を忘れてしまったかのように微動だにしない莉李を見つめながら、紫希は手を繋いでいる方とは反対の手で彼女の髪に触れ、言葉を続ける。
「『それとは反対に何色にも染まらない真っ黒に輝く美しい髪。こんなに美しい人を私は見たことがない。こんなところに隠れていたとは……いや、最初に見つけたのが私でよかった。私の————私だけのお姫様』」
「ちょ、先輩? どうしたんですか? というか、ち、近くないですか?」
いつもと違う雰囲気、そして口調を変えて紡がれる
今まで見たことのないほど、至近距離に入る紫希の顔に、莉李の心臓は忙しなく振動し続ける。
「やっとこうして会えたのに……他の男の名前を呼んで、楽しそうに話す君の口を塞ごうかなって」
「何、言ってるんですか。冗談はやめてください!」
それに、先ほどの言葉も劇中のセリフのようで————だいぶ脚色が入ってはいたけれど————目の前の人物が、よく見知った人ではないように感じて、やはり動悸が治まらない。
「一回聞けば、覚えられるからね」
「えっ」
「声に出てたよ」
目を見開く莉李に、「顔に出てたよ」と言うように紫希が淡々と口にする。
思考が追いつかなくなってきた莉李は「こんなところで記憶力の良さを発揮しないでください」と、照れ隠しが加わり、いつも以上に物言いが冷たくなってしまう。
「……それに白雪姫は髪短いじゃないですか」
おでこが離れるくらいに距離を取り、落ち着きを取り戻そうと試みた。それでも莉李の口は動くのやめず、彼女にしては脈絡のない言葉を紡ぐ。
さすがの紫希も一瞬驚いたような表情を浮かべたのだけれど、それもすぐに元へと戻った。
「俺、莉李ちゃんの髪好きだよ」
「そういうことを言っているわけではなく……」
「切っちゃだめだからね」
紫希はそう囁きながら、莉李の髪に触れ、そのまま唇を寄せる。
「!」
「莉李ちゃん、顔真っ赤。照れた? もしかして照れちゃった? 可愛いなぁ」
先ほどまでの空気とは一変、紫希はいつものようにヘラっとした笑顔を浮かべていた。揶揄うような紫希の言い方に、莉李は「子どもですか!」と口を膨らませる。
そして、このタイミングで再度距離を取ることを試みようとしたのだけれど、繋がれた手を引かれ、そのまま紫希は莉李を自分の腕の中に収めた。
「ごめん、もうちょっとこのままで」
そう言いながら、紫希は彼女の肩に顔を
突然のことに戸惑いながらも、やはりいつもと様子が違う紫希に抵抗できずにいると……
「莉李ちゃんは柔らかくて、いい匂いがするね」
「何ですか、その変態発言。ふざけるなら離れてください」
「それは、ふざけなかったら離れなくてもいいってこと?」
「……」
再び揚げ足を取るようなことを言う紫希に、無言で何度目かの離脱を試みる。けれど、力を込められれば、やはり逃れることはできないのだった。
「ごめん、ごめん。もう言わないから。もうちょっとだけ、莉李ちゃんを補充させて」
その言葉を最後に、紫希は口を閉ざした。
莉李は慣れない体勢に戸惑いを隠せなかった。紫希からのスキンシップなんて、いつものことじゃないか、って? もちろん、それもそうなのだけれど、彼のスキンシップはいつも後ろからなのだ。背後を狙った方が、莉李も油断しているからなのだろうと思っていた。それが、今は正面切って来ているのだ。これが落ち着かないわけがない。
その初めてのことに、どうすればいいのかわからない莉李は、繋がれた手とは反対の手の行き先の答えを探していた。
————このぬくもりの余韻に浸るのも悪くはないけど……
君があんな笑顔を向けるのも、照れた表情を見せていいのも俺だけなんだ。………俺だけなのに……
こんな気持ちにヤキモキするのも、何だか面倒だ。
そろそろ潮時だろうか————
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