2-9 終幕、終わりは始まりに(前編)
大きな扉を静かに開けると、中は一点のみ明かりが照らされているだけで、辺り一面真っ暗だった。
「よかったぁ、間に合った…」
肩を上下させながら、莉李が静かに呟く。
ここへたどり着くまでに思いの外時間がかかってしまい、間に合ったとはいえ、劇はすでにクライマックスに差し掛かろうとしていた。
舞台上には、智也扮する王子の姿はまだ見当たらない。彼の出番はこれからなのだろう。
この劇は、脚本担当の秋葉の趣向が織り込まれている。さらに、最終打ち合わせ後も脚本の修正・変更を始めてしまい、結局どんな結末になっているのか、莉李は知らなかった。最終打ち合わせの意味とは、という気もするし、それを改めて覚え直さなければならない苦労も計り知れないけれど、盛り上がりを見せる秋葉を誰も止められなかった。
実際に、秋葉の勢いに巻き込まれたわけではないので言えることかもしれないけれど、どんな内容になっているのか楽しみにしていたというのが本音で。果たして、どこまで原作の状態が残っているのか。もちろん、それは見てのお楽しみ。
莉李は邪魔にならないように隅に寄り、立った状態のまま、唯一ライトが当てられている舞台へと視線を向けた。
白雪姫は、森の中にある家で一人倒れ込んでいた。そのすぐ傍には、小さく齧られた跡が残ったりんごが転がっている。
辺りは静かで、降り始めた雨が微かに聞こえる程度。やがて、その中に複数の足音が混じり、白雪姫のいる家へと近づいてくる。
我が家にたどり着いた小人たちは、いつもの出迎えがないことに頭を捻る。一番乗りで『ただいま』を言おうと乗り込んだ
『先生! 白雪姫が! 白雪姫が!』
『どうしたんだ、ハッピー?』
ハッピーの異変に違和感を覚えた
『……姫?』
急いで向かった先に待っていたのは、床に倒れている白雪姫。グランピーは慌てふためき、白雪姫のそばで声をかけ続けた。けれど、いくら声をかけても白雪姫は応えてくれない。まして、動こうともしない。少しも、だ。ドックや他の小人たちも駆けつけたのだけれど、置かれている状況が飲み込めずにいた。
小人たちは白雪姫を囲み、悲しみにくれていた。
雨はやがて大粒に変わり、そして雷を思わせる轟音が響くと、彼らの悲しみを深く深く沈めていく。
『すみません』
不意にかけられる声。
けれど、雷雨の音がひどく————いや、それ以前に今の彼らにはそんな些細な音など聞こえない。
『すみません、雨がひどくて……雨宿りを、と。勝手に上がらせていただきました』
返ってこない声を気にする様子もなく続けられる言葉。
誰もいないのだろうか、と客人が家の中を探索しているとすぐ小人の一人が目に入る。
客人は、家主がいたことに安堵し、人影のある方に歩みを進めた。
『すみません……』
彼らのいる部屋の入り口に立ち、改めて声をかけようとした客人は、彼らの様子に異様な雰囲気を感じる。何かを囲んでいる。皆、泣いているのだろうか。と、彼らが囲んでいるそこに視線を送った客人は、そこに横たわる女性を一目見ると息を飲んだ。
『白雪姫?!』
突然聞こえてきた大きな声に、小人たちの肩が跳ねる。
驚く様子の小人たちに目もくれず、客人は一目散に白雪姫の元へと駆け寄った。
『あぁ、噂は本当だったのですね……信じられない……信じたくない………』
白雪姫の手を握り、消え入りそうに言葉を紡ぐ。
そのあまりに切なそうな声に、ドーピーの涙が止まらない。そんなドーピーの頭を撫でながら、ドックが客人に声をかけた。
『白雪姫のお知り合いですかな?』
『え……あぁ、はい。と言っても、幼い頃に会ったことがあるだけで、最近は全く……』
『そうでしたか……しかし、幼い頃に、ということであれば、よく彼女が白雪姫だとわかりましたな』
『彼女は昔と何も変わっていない。いや、さらに美しい女性になった。雪のように真っ白に透き通った肌。それとは反対に、真っ黒に輝く美しい髪……』
客人は、白雪姫の傍らに跪いた状態で、彼女の顔に手を触れる。
その手は、何だか震えているように見えた。
『もっと早く、彼女に会いに行けばよかった……』
後悔先に立たず、と言わんばかりに握った手に額を当て、目を閉じる。
永遠の眠りについた白雪姫からは、もうほとんど体温が感じられなくなっていた。そんな悲しい事実が、繋いだ手から伝わってきて、客人は目頭が熱くなる。
『最後に、彼女に挨拶させていただいてもよろしいですか?』
『ぜひ』
眉を下げ、悲しみを隠しきれないドックが、それでも気丈に振る舞う。彼のそんな穏やかな笑みに、客人も少しだけ口角を上げた。
客人は白雪姫へと視線を戻すと、手を握り締めたまま、眠りにつく彼女の顔を焼き付けようと自身の顔を寄せる。
その表情はとても永遠の眠りについたとは思えないほど美しく、今にも目を開けて、話しかけてくれるような、そんな風に見えた。それが自分の願望であることを彼は知っている。だからこそ余計に、悲しさを助長させた。
『誰しもが真の愛に出会う資格がある。私はずっとそう教えられ、育ってきました。私もそう信じている。今————君を失うとわかった今、私はそれに気づいた。君が私の運命の人だったのだと。何とも皮肉で、今更だと笑ってくれてもいい。君にとっても、私が運命の人だったなら、これほど嬉しいことはないのに————』
そして、彼は彼女に口づけをした。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。近づいた時と同じようにゆっくりと顔を離すと、彼は白雪姫の顔を見つめた。優しく、穏やかな表情で。
彼は再び目を閉じた。心の中で、さらに言葉を重ねる。
その時だった。一瞬、彼の手の中で何かが動くのを感じた。触れた、という表現の方が正しいだろうか。
『……ん……』
『姫?!』
『あれ、皆どうしたの?』
寝ぼけているような虚な目を開き、小さな口が言葉を紡ぐ。今朝聞いたばかりの愛しい声。
その場にいる全員が信じられない、と言わんばかりに目を丸くし、彼女を見つめる。そんな彼らの目が、いつもと違うことに白雪姫は戸惑いを隠せない。一体何事なのだろうか、とおずおずと言葉を投げかけるのだけれど、彼らは口を開こうとしない。
『……えーと……』
『姫』
『え?』
聞き慣れない声が鼓膜を振動させたかと思うと、小人の身体ではない大きな腕が白雪姫を覆う。
抱きしめられているのだと、白雪姫が理解するまでに少々時間を要した。そもそも、彼は誰なのだろうか。次から次へと出てくる疑問に、白雪姫の思考はショート寸前だ。
『良かった、本当に良かった……』
抱きしめる腕に力が加わる。彼女の存在を確かめるように。その温もりを感じ取るように。
力は込められているのに、その触れ方は優しさに溢れていた。まるで守られているのだと、錯覚してしまいそうになる程。
『失礼しました、
『あ……』
我に返ったかのように、白雪姫から身体を離した客人が自己紹介をしようと口を開くのと同時に、白雪姫が驚いたような表情を浮かべた。
写鏡かのように、目の前の彼も目を見開く。どうしたのだろうか、と白雪姫の言葉を待った。
『もしかして、あなたは……』
『私のことを覚えてくださっていたのですか?』
『えぇ。そうか…私の王子様はあなただったんですね』
白雪姫は彼から目線を逸らし、俯いた。
彼女の発言を受けてのその行動は、不満を示すものなのだろうか、と彼は不安にかられる。けれど直後、手に温もりを感じた。それは白雪姫が、彼の手を取ったからで、その行動の意味がわからないまま、手から彼女の顔へと視線を走らせると、何となく俯く彼女の顔が赤くなっているような気がした。
『王子? あなたは王子様なの?』
『一応。身分的にはそうなりますかね』
『王子がどうして単身、このようなところに?』
二人のそばで歓喜に沸いていた彼らも落ち着きを取り戻し、ちらほらと彼に言葉を投げかける。
彼————王子は、手を繋いだ状態のまま、ドックの方へと体を向けた。
『白雪姫がお亡くなりになられたと噂に聞いて、城に向かう途中だったのです。色々と情報に間違いがあったようですが……そして、豪雨に見舞われ、こちらに————この雨は、白雪姫と私を巡り合わせてくれた。まさに、恵みの雨というわけですね』
『そうでしたか。いや、しかし、我々にとっても恵みだ。あなたがここに来てくれなければ、姫は今も永遠の眠りについたままだったでしょう』
小人たちが彼に感謝の言葉を述べる。そのことが照れ臭いのか、王子は頭をかいた。
『でも、どうしてここに?』
どうして、城にいないのか。不思議な点がたくさんあった。聞いていた話は全て嘘だったのだ。そうであれば、真実が知りたい。王子はそう思った。
彼女の身に何があったのか、王子は全ての事情を彼女と小人たちから聞いた。
『そうだったのですね……姫、これは提案なのですが』
『?』
『我が城に来てくださいませんか?』
『えっ』
『これからは、そばであなたを守っていきたい』
『ですが……』
突然の王子からの申し出に、白雪姫は困惑した。
そう言ってくれたことが迷惑というわけではなく、単に突然すぎることに戸惑いを隠せなかったのだ。
『では、言い方を変えましょう』
困惑する白雪姫のそばで王子は跪き、改めて彼女の手を取る。
『どうか、私とともに来てはくださいませんか。私とともに生きてはくださいませんか』
懇願するような真剣な表情、そして言葉。その光景に、どこか遠い記憶の中に既視感を感じながら、白雪姫は笑った。本当は答えなんて決まっていたのだ。
白雪姫は小人たち一人一人に目線を向け、そして王子の方に顔を戻すと、王子の瞳に吸い込まれるように一つ小さく頷いた。
彼女の返事に王子は破顔し、周りにいた小人たちも歓喜の声を上げた。
こうして、白雪姫は王子の城へと向かい、二人は末永く幸せに暮らしましたとさ————
ナレーションで締め括られた劇は、終幕を迎えた。
最後に、出演者全員が舞台に立ち、観客に向かって感謝を述べると、言葉通りに幕が下ろされる。
幕が下り始めるのと同時に、会場からは拍手喝采が巻き起こった。
莉李もそれに違わず、精一杯声援を送る。
やはりというか、所々、秋葉の趣向が思い切り散見されるような演出も見られたのだけれど、とても素敵なお話だったと思う。
何より、智也の王子役が、その見た目だけでなく、雰囲気から何から全てが板についていたこともまた微笑ましいと思うのだった。
しばらくこのまま余韻に浸っていたい気持ちもあったけれど、それよりもクラスメイトの元へと向かいたい、とその思いの方が強かった。
莉李は一つ息を吐くと、踵を返そうとした。
けれど、その行動は何かによって阻まれる。
その何かはわからない。突如として視界が真っ暗になり、何も見えなくなった莉李には、それを確かめる術はなかった。
確かに、体育館内は暗闇と化していたけれど、それでも見えないほどではなかったはずだ。
では、この状況は一体?
「ちょっと遅かったみたいだね」
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