1-7 柑子の決意
雨の音で目が覚める。
昨日、日が落ちる頃には雲行きが怪しくなっていき、日が変わるとすぐ、それは水滴となって地面を濡らし始めていた。
朝になっても厚い雲は太陽を隠したまま、雨は止むことなく不機嫌そうに地上へと降り注ぐ。
制服とは異なり、莉李の通う高校に靴の指定はない。
各々がスニーカーやローファーなど、好きなものを身につけており、かく言う莉李も、普段はブラウンのシンプルなデザインのローファーを履いていた。
けれど、今日みたいな雨の日には、滅多に履く機会がない、とはいえとてもお気に入りのレインブーツを履いて気分を上げていた。
強い雨ではないけれど、すでに落葉の準備をしていた葉は、触れるような力にも抗うことができず、そのまま重力に従う。
地に触れた葉は、その上から降り落ちる雨と、さらにそのうえを歩いていく様々な靴底の形がつけられている。
莉李はなるべくそこを踏まないように、コンクリートが残っている部分に注視して歩いていく。
「莉李ちゃん、おはよ」
いつものように突撃してきた紫希が、今日は後ろから抱きつく代わりに、莉李の傘を奪い取る。
不意をつかれた衝撃でふらつく莉李を抱きとめながら、紫希は莉李の方へと傘を傾けた。
お礼の言葉を述べつつ————ここで莉李がお礼を言う必要はあるのだろうか、という疑問もあるけれど————体勢を元に戻し、紫希の手から離れる。今日はずっと雨だというのに、傘を忘れてきたのだろうか、と傘を差している手とは反対側の腕に、水滴のついたそれが目に入る。
その視線に気づいたのか、紫希はいつものようにヘラヘラとした笑顔を返した。
いくら弱い雨だからとはいえ、二人で一つの傘を差すことにデメリットしか感じない莉李は、訝しげな表情を浮かべる。現に、莉李の方に傘を傾けているせいで、紫希の肩は降り続く雨に濡れ始めていた。
「先輩……」
「莉李ちゃん、あの編入生くんと席隣って本当?」
「自分の傘があるなら」そう言いかけた言葉は、紫希の剣幕によって遮られる。
あまりに唐突に、問い詰められる内容に思考が追いつかず、莉李は困惑したように頭を傾げた。
「ねぇ莉李ちゃん、本当なの?」
「どこからそんな情報入手するんですか」
「それは、ほら。俺、生徒会長だし?」
「職権濫用……いや、席順と生徒会長は関係ないですよね?」
「あはは。莉李ちゃんが一人ノリツッコミしてる」
本当に面白いというように、紫希は一人で笑い始める。
莉李としては意図していないし、その笑いも何だか揶揄いのように感じて、不服そうにムッとした表情を浮かべた。
そんな莉李の表情に気づき、宥めるように「ごめんね」と口にしながらも、先ほどの自身の問いかけに対して、やっぱりそうかと納得していた。
「俺も莉李ちゃんと同じクラスにしてもらうんだった」
「同じクラスも何も、学年違うじゃないですか」
「留年するつもりですか」という皮肉じみた言葉も聞こえていないかのように、紫希は何やらぶつぶつと独り言のように言葉を呟く。その声は近くにいる莉李でさえ何と言っているのかわからない。
会話中も二人の足は着実に学校へと向かっていて、気がつけばもうすぐ目の前に校舎が来ていた。
それに気づいた莉李が、紫希から傘を返してもらおうと手を差し伸べると、紫希はいまだに何かを口にしていて、建物が目前に迫っていることに気付いていない。
「先輩、前!」
言葉を発するのと同時に手を伸ばした莉李だったが、それよりも前に二人の後ろから出てきた腕により、紫希は間一髪のところで衝突を避けることができた。
「成瀬の声にも反応しないなんて、具合でも悪いのか?」
「
黒い無地の傘を差し、紫希の顔面衝突を阻止した学生が顔を覗かせ、その見慣れた顔に莉李は驚きながらも朝の挨拶を口にする。
紫希の首根っこから手を放し、自身が差していた傘を閉じながら、莉李に挨拶を返した。
違う意味で呆けている二人を尻目に、この中で一番冷静な
その行動を目を丸くして見ていた莉李が、我に帰ったかのように慌ててそれを受け取った。
「九条、悪い。助かった」
「大丈夫か?」
「うん。莉李ちゃんと同じクラスになって、高校生活を謳歌する方法について考えてた」
「……その集中力は、もっと他のところに使ってくれ」
もっともな九条の言葉に、紫希はいつものようにヘラヘラとした笑顔を見せる。
そんな二人の日常的なやりとりを見て、莉李は不思議とほっとしていた。
「それはそうと、国東借りてもいいか?」
「?」
紫希から莉李へと視線を移動させ、どういうわけか九条は紫希ではなく莉李に許可を求めた。九条の意図がわからず、首を傾げる莉李だったけれど、特に断る理由もなく、「どうぞ」とそのまま頷いた。
そうなると今度は、紫希が喚き立て始める。彼の言い分としては「莉李ちゃんが、九条に俺を売ったー!」ということらしい。まるで子供のそれである。
これもある意味いつも通りのことで、喚く紫希を冷めたような目で二人が見つめる。
そのまま二人は顔を見合わせ、何か納得したかのように相槌を打った。
二人のアイコンタクトに、まるで仲間外れにされているように感じたのか、紫希はそれに対しても不満を叫ぶ。が、もはや馴染みがありすぎる光景に動じない九条が、再び首根っこを掴むようにして紫希を引きずっていく。
抗う紫希の抵抗は無駄に終わり、莉李はただただ手を振って見送るのだった。
「一緒に登校しているのか?」
「?」
紫希と九条の姿が見えなくなり、自身も教室へ向かおうと振り向いたところに、智也から声がかけられる。
突然のことに驚きを感じながらも、智也の方から声をかけてきてくれたことに嬉しさも感じていた。
「……」
すっかり雨の憂鬱さも、訊ねられたことも忘れている莉李は、満面の笑みで智也を見つめていた。
智也にとっては、この状況は全くもって理解できないものだろう。どうして笑顔を向けられているのか。しかもとても嬉しそうに。
智也は戸惑いながらも、「あんた、全く危機管理能力ないのな」と悪態をついた。
初対面から失礼なことを言われ続けているにもかかわらず、莉李は気にする素振りも見せない。
それどころか、「そんなこと、初めて言われた」と感心している。
予想外の莉李からの反応に、智也は堂々とため息を吐いた。
頭を抱えるような仕草をし、「こっちが気をつけないとダメか」と独り言のように本音を漏らす。
「あいつの目的がわかるまでは、目光らせとくしか……」
「?」
「別に」
馴染みのある仏頂面を浮かべると、首を傾げる莉李を残して智也は校舎内へと入っていく。
しかし、デジャブかのように智也はすぐに立ち止まり、振り返った。
「俺はお前を守ろうとしてるわけじゃない。アイツらが気に入らないだけだ」
「?」
何のことを言っているのかわからない莉李を尻目に、詳しい説明をする気はないと言わんばかりに踵を返し、足早に教室へと向かった。
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