1-5 闇夜に光る銀鼠

「私、何かついてる?」


 智也の言葉に、徐にカバンから鏡を取り出すと、莉李は真剣な表情で自分の顔を見つめ始めた。

 普通であれば訝しげな表情を浮かべそうな発言だけれど、莉李からそういった雰囲気は感じられない。

 莉李の行動に、智也は眉間にシワを寄せた。そのまま、じっと睨むように見つめたけれど、目の前のことに集中している莉李は、そのことに気づかない。

 ほんの少しして、言葉の相違に気づいた智也が、説明することもなく目線を教卓の方へと戻した。


 一通り自分の顔を確認し、見つけられなかった莉李は、その答えを求めて智也の方を見た。けれど、智也はもうすでに興味を失ったかのように、彼女の方には視線をよこさない。

 揶揄われたのだろうか、と思いながら再度智也に視線を送るが、やはりこちらを見ようとしない。

 ずっと見ているのも不審者のようで、莉李は諦めたように鏡を仕舞った。




***




「こっちが特別教室がある校舎。化学の実験室とか音楽室はこっちの校舎にあるよ」


 お昼休みに入ってすぐ、担任から莉李に依頼が舞い込んだ。編入生に校舎を案内してほしいとのことだった。

 お昼前の最後の授業が担任の教科だったため、離席する前に捕まり、隣の席で智也もそれを聞いていたのだけれど、あからさまに嫌そうな顔をした。

 乗り気でないことは明白で、それでも、昼食後の都合を聞くと、黙って頷いた。


 昼食を食べ終わり、早速校内を歩き回る。

 渋々でもちゃんとついてくる智也を見ながら、案外素直な人なんだろうな、と勝手に想像していた。


「あれ、莉李ちゃん?」


「?」


 不意に名前を呼ばれた莉李は立ち止まり、その声の方へと顔を向ける。けれど、聞き慣れたその声の正体は、顔を確認しなくてもわかっていた。


「先輩」


「この時間にこっちにいるなんて珍しいね。あ、もしかしなくても俺に会いにきてくれたのかな?」


 莉李が何も言わないうちに、紫希は勢いよく彼女を抱きしめようとした。いつもそうしているように。

 しかし、不意をつかれたわけではないその行為は、莉李の手により容易に阻まれる。


「えーと、3年生の教室もこっちの校舎で」


 お互いに違う方向にぐいぐいと力を込めつつ、視線は紫希の方に向けたまま莉李が案内を続ける。

 そこで初めて智也の存在に気付いたかのように、紫希が彼の方へと視線を向けた。


「莉李ちゃん、こちらの彼は? 見たことない顔だね」


「編入生で、今日から…」


 智也の紹介をしようと、莉李が智也の方に手を差し伸べた時、莉李はすぐに言葉を失った。言葉を失くしてしまうほど、そこだけ空気が違っているように感じられた。

 振り返った莉李の目に入ってきた智也の表情は、とても初対面の人を見るようなものではなかった。激しい嫌悪感が滲んでいた。嫌悪、と一言で表現できるものでもない。憎しみや怒りなどの負の感情が、彼の表面全体から溢れ出ているようだった。


 その空気に莉李は圧倒される。

 本当にが圧迫してくるかのように、莉李は一歩だけ後ずさった。


「初めまして、国東です」


 よろしく、と言って智也の前に手を伸ばす。

 その手の目的は、誰が見ても一目瞭然なわけだけれど、智也はその手を見つめたまま、応えようとはしない。その態度は、莉李たちに自己紹介をした時から一貫していたけれど、今の彼の雰囲気からは、それとは別の感情が窺える。


「あまり、こういうのは得意じゃなかったかな?」


 明らかに敵意剥き出しの智也に対して、紫希はいつもと変わらない口調で話し続け、迎え入れられそうにない手を自分の元へと戻す。


 何も考えていないかのように顔を緩ませ、笑みを浮かべている紫希と、深く深く刻み込まれた眉間のシワから派生する凄みを持たせた瞳で紫希から視線を外そうとしない智也。

 相反する態度の二人のそばで、どうすればいいのかわからず、莉李はただ立ち竦んでいた。


 そんな莉李の様子を横目で一瞥した紫希が、ほんの少しだけ片方の口角を上げた。それは、誰にも気づかれないほど、本当に一瞬の出来事だった。


 紫希は、いまだに自分を睨み付けている智也を他所に、莉李の方に身体を向けると、彼女の頭の上に手をおいた。そして、莉李の目線に合うようにしゃがみ込むと、優しい口調で彼女の名前を紡ぐ。


「莉李ちゃん。それじゃあ、俺もう行くけど。もし何か困ったことがあったら、すぐに呼んでね」


「いいね?」そう付け足し、莉李の頭を優しく撫でた。

 触れられた反動で軽く目を閉じた莉李が、頭にあった温もりがなくなるのと同時に目を開けると、紫希が智也に何かを耳打っていた。

 終始、訝しげな表情を浮かべる智也は、その表情を崩すことなく紫希の言葉を聞く。その声を、莉李は聞き取ることができなかった。


 どの言葉に対しても返事をもらえないことについて、さほど気にする様子もなく、紫希はそのまま自分の教室へと戻っていった。

 

 一体、何を話していたのだろうか。と思いながらその背中を見送り、莉李は恐る恐る智也の方へと振り返った。

 すぐにその視線に気づいた智也が莉李の方へと顔を向け、数分ぶりに二人の目が合う。

 その表情からは、先ほどまでの嫌悪が薄れていた。

 たったそれだけのことに、莉李は肩の荷が下りたかのように、一つ息を漏らした。


「あの人…」


「ん?」


「あんたの彼氏か何か?」


「え…?」


 智也からそんな言葉が出てくるなんて想像もしていなかった莉李が、目を丸くする。

 莉李の表情を見た智也は、再び眉間にシワを寄せた。見当違いなことを口にしたのだと思い込み、バツが悪そうに「何でもない」と呟く。


「あ、ごめんね。ちょっとびっくりして」


 背中を向けてしまった智也に、弁明を求めるように莉李は慌てて言葉を紡いだ。


「先輩は、生徒会が一緒なだけで。あ、私生徒会に入ってるんだけどね」


「だから、そういうのじゃないよ」と、智也が聞いているのかどうか定かではない中、莉李は話し続ける。

 気まずそうな智也とは反対に、ほんの少しだけど、普通の会話ができたことに莉李は目尻を下げた。その嬉しさを噛み締めるように。

 これが、会話と呼べるものかどうかはさておき。


「……向こうはそう思ってなさそうだけどな」


「?」


 小さく呟かれた言葉は、莉李の耳には届かなかった。

 聞き返そうと口を開く前に、智也は莉李に構わず歩みを進める。


 何か気に触るようなことを言ってしまっただろうか、と不安な気持ちに苛まれていると、先を歩く智也が立ち止まった。止まった足から視線を上げると、案内の続きを催促しているように見えた。

 智也は口を開いたわけではないけれど、表情がそう言っているようで、莉李は笑顔を浮かべて智也のあとを追った。




***




 冬の訪れを知らせるように、冷たい風が吹き付ける。

 明日は天気が崩れるのか、太陽が沈んでから、月もその姿を隠したままだ。

 そんな中、ビルとビルの間に、二つの人影が密かに夜へと溶け込んでいた。


「あーあ。今回のはひどいねぇ」


 二つのうちの一つが、そう呟きながらしゃがみ込む。

 もう一つは地面に横たわり、指先一つ動かない。


「こういうの見ると、自分の担当が嫌になるんだよなぁ。担当変更とかなんないかな。異動願い出そうかな」


 独り言を、それに見合わない音量で口にしながら、「そうだ、出そう。すぐ出そう。思い立ったが!」と、それはヒートアップしていく。


『遊んでないで、仕事してください』


 どこからともなく聞こえてきた声にぼやきが止まると、そこにいる影がため息をついた。

 肌に触れる風が、暗闇でも輝く銀髪を揺らし、その冷たさも現実に引き戻す手助けとなる。


『最近、いつも以上に進捗悪いんですから。たまにはちゃんと働いてくださいよ。それでなくても、に残っていることをよく思わないものもいるんですから』


「別にサボってないでしょ、って」


 次から次へと出てくる小言に悪態をつきながら、渋々といった様子でいつもの作業に取り掛かる。

 とは言うものの、特にその表情を変えることもなく、銀髪の人物は、目の前のものを端から端まで見つめ、があったはずの部分に見当をつけると、静かに左手を翳した。


 小さな声で何かを口にする。それは、声として音が奏でられているのかもわからないほどとても小さく、何と発したのかはわからない。その口が最後の動きを見せるとすぐ、横たわっている体を青い光が包み込んだ。

 光は足先から徐々に頭上に集まっていき、翳した手へと吸い込まれていく。そのが終わるのに、さほど時間は掛からなかった。


『あなたが駆けつけるのが遅いからですよ』


「連絡受けてからすぐに来たけどね」


『連絡なくてもわかるでしょう。次からはもっと早く動いてください』


 銀髪の人物が、からの小言を遇らうように対応していると、ビルの隙間風が物々しい音とともに冷たい空気を連れてくる。その風に肩を震わせていると、冷たい空気に混ざり込む人の気配を感じた。


『「……」』


 息を潜めてはみたものの、特段焦る様子もない銀髪の人物に、『それでは、あとはよろしくお願いしますね』と声が聞こえる。

 さすがにそれは引き留めようとしたけれど、を止める術もなく。


 わずかに残った希望に縋りつつ、気配のする方へと視線を向けた。

 潜むような足音、そしてその呼吸に、明らかにを意識していることがわかる。

 漏れている大通りの光を背に浴びながら、かろうじて視界に入ってきた顔に、銀髪の人物は何とも形容し難い表情を浮かべて悪態をついた。


「はぁ、たまに仕事するとだもんなぁ」


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