1-4 涅の混濁
莉李の朝の通学は、読書を伴う。
それは、読んでも読んでも、読みたいものがなくならず、むしろどんどんと増えていく中で、いかにして時間を有効に使い、それらを消化していくのか考えた結果だった。もはや習慣化している通学中の読書が朝だけなのは、言わずもがな視覚的問題だ。
この日もいつもと変わらず本を片手に歩いていたのだけれど、どういうわけか内容が全く入ってこない。
家を出てから、目が追う先は同じで、先ほど読んだばかりの文章を何度も辿っていた。
「うーん……やっぱりあぁいうことを安請け合いしちゃいけなかったかな」
「莉李ちゃん、おはよう!」
「……」
坂道を登りながら、そろそろ正門が見えてくる頃か、と思った矢先、背面に重さを感じる。
その勢いに倒れ込みそうになるのを、抱きしめる腕の力で庇われるのも、もはや日常と化していた。
「…先輩、重いです」
「莉李ちゃんは相変わらず可愛いね」
この成り立っていない会話もいつものこと。それでも、気がかりなことが心を占めていた莉李は、小さくため息をついた。
「先輩、昨日大丈夫でしたか?」
「ん? 昨日? 大丈夫って何が?」
「昨日お願いした件です」
紫希は莉李から離れ、空を仰いだ。いや、空というよりはそれよりももっと下———地面と空の間に視線を泳がせる。
とぼけているようにも見えたのだけれど、そのまま無意識のように足が動き、正門へと吸い込まれていく。莉李もあとを追うように歩みを進めた。
「昨日の……あぁ、あれね」
その言葉に莉李が反応し、前のめりに返事を待つ。
莉李の迫るような真剣さに、紫希は気づかれないように小笑した。
「大丈夫だよ。莉李ちゃんが心配することは何もないから」
「いや、私が心配しているのはそういうことじゃなくて…」
「ん? 莉李ちゃんは何を心配してたの?」
「え…あ、いや……」
意地の悪い笑みを浮かべる紫希を、睨むような目で見つめながら莉李は口籠る。
「粗相がなかったか」そんな言葉をどうすればオブラートに包めるのか、その答えをこの時の莉李は持ち合わせていなかった。
「俺は、莉李ちゃん一筋だから」
短い髪を掻き上げながら笑みを浮かべる。言葉に窮している莉李に、助け舟を出したつもりでいるのだろうか。
そんな紫希とは正反対に、莉李は顔をしかめた。
「……いつも言ってますけど、そういう冗談は言わない方がいいですよ」
「冗談じゃないからなぁ」
紫希は、顎に手を触れさせながらいつものように軽口を叩く。
そのわざとらしい仕草、その口調からして、冗談以外の何者でもない、と思う莉李だったけれど、それ以上の言及はしなかった。
再びため息をつき、紫希から視線を逸らそうと目線を下げる。目線が下へと落ち切る直前、視界に何かが入り込んだ。それは以前にも同じ場所で見たような、けれどその正体も、その理由も莉李は知らない。おまけに、その何かにとても違和感を覚えた。
一度覚えた違和感は、その正体を明確にしなければ、どうにも落ち着かない。莉李は、好奇心のようなものに突き動かされながら、再び視線を戻した。
「莉李ちゃん? どうしたの?」
「あ、いえ……」
口から出た言葉とは裏腹に、莉李の手は紫希の腕へと伸びる。
その手は、触れるすんでのところで止まった。止められたのではなく、莉李が故意に止めたのだ。
珍しいことに、紫希からではなく莉李から歩み寄りを見せ、その手があと少しで届く————その時、ほんの一瞬、本当にたったの一瞬だけ紫希の腕がピクリと反応を示した。そんなわずかな時間の出来事を、莉李は見逃さなかった。
いつもは嫌というほど、自らベタベタと接触を図ってくるのに、その動作はまるで、嫌がっているように見えた。
それでも、それが何なのかを判断するには十分だった。
「いつも包帯しているような気がしますけど、またケガでもしたんですか?」
莉李は触れることを拒まれた手を自分の方へと戻しながら、本当に心配しているような口調で言った。
制服から少し見えただけなので、その重症さは判然としなかったけれど、腕に包帯を巻いているということ自体が、軽くないことを証明しているようだった。
「ううん」
莉李の心配を他所に、紫希の返答はいつも以上に軽い。
「こうしてると、莉李ちゃんが心配してくれると思ってね」
「え…」
「ん?」
「そんな理由?」
満面の笑みを浮かべる紫希に、莉李は呆れるように本日何度目かのため息をついた。
まるで、心配して損した、と言わんばかりに。
そんな莉李は、紫希のことなど気にするのはやめたのか、その歩みを速める。
距離はどんどん離れていき、けれど紫希はそれを縮めようとはしない。
「君は知らなくていいんだよ」
呟くように口から出た言葉は、学校へ向かう学生たちの足音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
***
「あ、来たきた!」
紫希と別れ教室に向かうと、待っていましたと言わんばかりに昨日と同じメンバーが莉李の元へと駆け寄る。
その勢いに圧倒されながらも、彼女たちの方から話しかけてきてくれたことに、内心安堵していた。その表情から、嫌悪のような感情が窺えないことも胸を撫で下ろす要因の一つとなる。
「昨日はありがとう」
そう言って、最初に口を開いたのは梓だった。
紫希と話ができたことに、一日経った今もなお喜びを抑えきれない様子で、昨日とは打って変わってハキハキと言葉を発している。
その表情も、昨日のおどおどしたようなものではなく、花が咲くようにパッと明るい雰囲気を帯びていた。
「二人から、成瀬さんが会長と引き合わせてくれたこと聞いて」
そう言って梓は満面の笑みを浮かべた。
瞬時、莉李の頭に疑問符が現れる。けれど、その引っかかりを探ろうとする前に、嬉々とした様子で梓が話し続ける。昨日の出来事を莉李にも聞いてほしい、と強く訴えるように、そして何よりやはり楽しそうに語る梓に、莉李は一旦疑問を横に置き、耳を傾けた。
すでに一連の流れを聞いていたであろう二人の友人も、時折頷きながら黙って話を聞いていた。その顔には微笑ましいといった表情を浮かべている。
その梓の様子から、紫希の言葉も強ち嘘ではなかったのだな、とこっそりと心の中で謝罪する。
けれど、朝からのモヤモヤが取り除かれ、梓の嬉しそうな表情を見ることができたにもかかわらず、莉李の心の靄は晴れない。
先ほどの梓の言葉が脳内を占領する。しかし、梓も、二人の友人ですら気にしているようなそぶりは見られない。
そうなると、気にしているのは自分だけのようにも思えて、本人に訊ねようにもどうにも憚られる。と、そんなことを思案していると、お呼びがかかった。呼ばれたのは莉李ではなく、梓の方で。
今日の日直の一人が梓で、朝から早速仕事があるとのこと。もう一人の日直担当のクラスメイトが梓にその旨を伝えに来たのだった。
梓は承諾の意として頷き、律儀にも莉李に再度感謝の言葉を述べてから、この場をあとにした。
教室を出ていく梓を見つめていた三人は、その姿が見えなくなると再び顔を見合わせる。
「私、勘違いしていたみたい」
「?」
昨日、先陣を切って莉李に話しかけてきた彼女が、視線を落としたままそう口にする。
それが何のことを言っているのかわからず、莉李は黙って首を傾げた。
「私はてっきりそういう好意なんだとばかり思ってたんだけど……本当にただ話してみたかっただけみたい。ファン、みたいな?」
そう言った彼女の横顔が何だかとても切なく見えた。
それでも、その寂しそうな表情を一変させると、莉李に感謝の言葉を告げる。先ほど梓が莉李に対してそうしたように。
その言葉に、莉李は首を振った。それは、謙遜ではなく、彼女の本心だった。
「おはよう」
「美桜、おはよう」
教室に入るなり捕まっていた莉李は、そのままドアを塞ぐように立ち話をしていたため、登校してきた美桜を通せんぼしている形になっていた。
莉李は申し訳なさそうに移動し、そのタイミングで二人も自席へと戻っていく。
「莉李、あの子たちと仲良かったんだね」
不思議そうな表情を浮かべる美桜に、莉李は少しだけ口角を上げる。
「昨日、先輩のことでちょっとね。ほとんど初めまして、だけど」
「そうなんだ」
美桜はそれ以上追及することはなく、自分の席へと向かった。
莉李もまだカバンをおろしていなかったことに気づき、美桜の行動に習う。
カバンと一緒に椅子に腰を下ろすと、自然とため息が出た。
ずっと違和感が拭えない。
友人である彼女が最後に言った言葉も気になっていた。それが全てなのだろうか。それが正しいのだろうか。
そんなことを悶々と考えていると、チャイムが鳴った。
朝のHRが始まる5分前の予鈴だ。
しかしながら、いつもはその5分後にしかやってこない担任が、のそのそと教室へと入ってくる。
そのお早い担任の登場に、クラス全員が不思議に思いながらも、各々席についていく。
そんな彼らの視線は、いつもの行動パターンと違う動きを見せた担任ではなく、その横へと向いていた。
「よし、みんな揃ってるな」
担任の一声で、ざわついていた教室に静寂が生まれる。
それでも、彼らの目は落ち着きなくその人物を見つめていた。
白と紺色の中に、ポツンと佇む黒い制服。
それがまるで異端さを感じさせるように、たった一つの色彩が教室内に入り込む。
「
何とも適当な紹介を特に気にする様子もなく————というよりは、教室内に入ってきた時からずっと仏頂面で通している編入生の冷たい空気に、クラス全員が凍っていた。
そんな彼は挨拶もそこそこに終えると、担任が指定した席へと足を進める。
「わからないことがあったら、隣の成瀬にでも聞いてくれ」
最後まで雑な対応を、やはり気にかけることもなく、編入生は空いている席に腰掛けた。
「成瀬です。よろしくね」
莉李が笑顔を向けて挨拶をすると、そこで初めて目が合う。
色素の薄い瞳に映り込んだ莉李を見て、編入生は挨拶を返すことはなく、その代わりに眉間にシワを寄せた。
「あんた、何か憑いてる?」
それが、莉李と智也が初めて交わした会話だった。
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