1-3 鉛の地金
階段を上るたびに小さく揺れる赤い髪。
生徒会室は3年の教室と同じ校舎にあり、目的地に向かうには、二階の渡り廊下を通る必要がある。渡り廊下に向かうまでに、まず三階にある生徒会室から一つ階段を下り、そして莉李たちの教室がある四階まで再び階段を上らなくてはならない。
その非効率的な構造を気にもしていないかのように、軽い足取りで階段を上っていく。
最後の一段を上りきると、紫希は莉李の教室がある方へと足を向けた。その動作に迷いは微塵も感じられない。
階段から教室までの長くない道のりを、莉李が歩いているのかと考えるだけで自然と口角が上がる。しかし、それとは同時に、相反する感情も芽生え、紫希は無意識に左手首をさすっていた。
莉李のクラスの前まで来ると、教室のドアは閉まっていた。廊下側の窓も全て閉じられ、磨りガラスがはめ込まれた窓からは中を覗くことができない。それでも、ドアの一部は普通のガラス張りとなっているので、教室内の様子を伺うことができた。
教室には、一人の女子生徒がそわそわした様子で黒板の方を見ていて、紫希には気づかない。
ドアに手をかける前に周囲の気配も確認する。
目を閉じ、半径10メートル程度の距離に意識を飛ばす。その間、何か特別なことをするでもなく、1分にも満たない間に紫希は目を開け、満足そうに先ほどとは違う笑みを浮かべた。
けれど、すぐさまその笑みを消し去った。そして表情を戻してから、ドアを開ける。
その音に、肩が跳ねた梓は、その勢いのままドアに顔を向けた。
「あ…」
「梓ちゃんかな? 遅くなってごめんね」
「いえ、来てくださってありがとうございます!」
目の前に憧れの人物がいる。目が合い、自分の名前を呼んでくれるという、これまでには考えられないことが起き、歓喜の気持ちで梓の頬は一気に紅潮する。
緊張、興奮、動揺……様々な感情が、彼女の表情や動作から読み取ることができ、それとは反対に紫希は穏やかに優しく微笑んだ。
「俺に何か話したいことがあるって聞いたけど」
「はい……その…」
莉李から話を聞いた時点で、用件は把握していたけれど、目の前の梓の様子でそれを確信する。
あの独特な、特有の空気。
この空気に触れるのは、一度や二度ではないため、わざわざ見なくても答えは明確だった。そして、彼女がその言葉を紡ぐまでに、時間を要することも知っていた。
「会長は、その…付き合っている人はいますか?」
「いないよ」
「あの、それじゃあ…」
「ごめんね。気持ちは嬉しいけど、それには応えられないんだ」
最後まで言わせてもらえなかった言葉を呑み込む梓に、紫希は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
それにつられるように、梓も眉を下げる。
「……好きな人がいるんですか? 成瀬、さん?」
紫希は困ったように笑うだけで、言葉を発しようとしない。
それでも、その表情は答えを得るには十分すぎた。
梓は紫希から目を逸らし、そのまま俯く。
泣き出してしまうだろうか、と思いながらも、もう一度「ごめんね」と口にするとすぐ踵を返した。ここで優しい言葉をかけてしまうのは、梓にとってよくないことだと理解していた。
「待ってください!」
足を一歩ドアの方へと進めた紫希の裾を掴み、必死の様相で引き止める。
下を向いたままの梓を、紫希は顔だけ向けた状態で見つめた。
「でも、付き合ってないんですよね?!」
「それでも、君の気持ちには応えられない。それは変わらないよ」
先ほどよりも少し冷たい空気を纏い、突き放すように伝えられた言葉に、足が竦みそうになる。
けれど、この機会を逃すともう最後かもしれないと、梓も必死に食い下がる。
「代わりでもいいんです! 成瀬さんの、代わりでも……」
「……つこいなぁ」
「え?」
「すぐに諦めてくれれば、それでよしとしようと思ってたのに」
明らかに変わった声色に、梓は肩が跳ねた。
変わったのは声だけではなく、その雰囲気も梓が知っている紫希のものではない。
「珍しく彼女がお願いなんてしてくれるから、思わず聞いちゃったけど」
一番近くの机に腰掛け、淡々と言葉を発していく。
「誰のせいで、彼女との時間がなくなったと思ってるの? 本当なら今頃、一緒に帰り道を歩いていたっていうのに。それとも何? 彼女との時間を奪える権利を、君は持ち合わせているとでも言うの?」
梓を見下ろしたまま、自分の左腕に手を伸ばす。
白い学ランの下から同系色の布が顔を覗かせる。紫希はそれに目を落とすこともせずに、慣れた手つきで外していく。
「それに、彼女の代わりにしてくれって? 随分と面白いことを言うね。彼女は彼女じゃないとダメなんだよ。人類がどれだけ集まっても、彼女に代えられるものなんて存在しない。馬鹿にするのも大概にしろよ」
「本当は、ここまでするつもりはなかったんだけど」と、左腕に巻かれていたそれが全て外され床に落ちると、紫希の髪色が徐々に変化していく。
彼のトレードマークともいえる赤髪が、どんどんと色を失くし、新たな色に染まっていく。
それは日が落ちて、沈んでいく夕陽に照らされて輝くような、綺麗な銀色だった。
「……誰?」
「君がそれを知る必要はない」
吸い込まれるように逸せない瞳が、いつも見ていた髪色と同じ色に変わったことにも気づかないほどに、梓はこの状況を理解できなくなっていた。
もう言葉を発することも許されない。
「知ったところで、その恐怖も俺への気持ちも全てなくなる」
紫希は、梓の目の前に左手をかざす。
それは、触れるか触れないかのギリギリの距離で止まり、迫りくる恐怖に梓は思わず目を閉じた。
次に目を開けた時には、梓は一人教室にいた。
自分の席に、ただ、座った状態でたたずんでいた。
教室には他に誰もいない。自分がどうしてここに残っているのかもわからない。
その時、不意に教室のドアが開いた。
「あれ、まだ残っている人がいた」
「!! 会長…!」
梓は驚いたように、慌てて立ち上がる。
その勢いで、椅子がゆらゆらと揺れた。
二人は今ここで初めて会ったかのように言葉を交わしていく。
梓は、目の前の生徒会長に緊張している表情を浮かべてはいるけれど、先ほどのように顔を赤らめたりすることはない。
ただ、目を引く赤髪が、話すたびに揺れ動くのを無意識に目で追っていた。
「もう下校時間過ぎてるから、気をつけて帰ってね」
「はい! さようなら、会長」
その言葉に手を振って返す紫希に、梓は会釈をして教室を後にした。
梓の後ろ姿を見送っていた紫希は、その姿が見えなくなると、自身も帰路につこうとしていた。
彼女が先ほど歩いた廊下を辿るように歩く。
数歩、足を進めたところで、左側にある何かが靡かれる感覚を覚えた。
「あれ、ちゃんと巻けてなかったか…」
目線を落とすと、左手首に巻いてあるそれが緩く解けかかっていた。
紫希は足を止め、反対側の手でそれを巻き直す。何かを覆うように、隠すように手首に巻きつけていく。
それが終わると、紫希は小さく一つため息をついた。
「急ぐ必要もないけど……」
窓の向こうを見つめながら独り言のように言葉を紡ぐ。
太陽の活動時間が短くなってきている現在、外はすでに暗闇を迎え入れようとしていた。
「あぁ、俺の莉李。その全て……早く俺のモノにならないかなぁ」
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