最終話 最後の逢瀬
魂が抜けたような日々の中で、実体のある生活の困難というものが、ひたひたとにじり寄って来ていた。貯金が底を尽き始めていたのである。俺は、措置診察すら断るようになってきていて、行政嘱託医としての業務をまっとうできなくなっていた。来期に契約を切られることは確定的だった。福谷さんも、もう電話をしてこなくなった。見限られたのである。
なんとかもう一度、底を尽いたエネルギーを、回復させる必要があった。枯れた井戸から、水が湧き出るようにしなくてはならなかった。でも、その方法がわからなかった。
何もすることのない朝に(つまり毎朝ということである)、近所の公園を散歩することが習慣になっていた。仕事に行くでもないのに、仕事用の鞄を手に持っていた。鞄は相変わらず重かった。アシナガの、残していった作品の石が、まだ中に入っているからだ。
自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、俺は、ベンチに座って茫然とした。背後には、ひとつ大きなイチョウの木を挟んで、もうひとつベンチと、そしてその向こうには池がある。そして、目の前には砂場がある。未就学であろう子供が二人、そこで遊んでいる。それを、やや遠目で、二人の母たちが談笑しながら見守っている。いつもここで、この時間帯に見る、二組の母子である。
先のことを考えることも億劫になり、俺は無心に、風に揺らされる木々に視線を送っていた。
「鈴木先生」
背後から声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。忘れ得ぬ、印象的で、でも平板で抑揚のない、声だった。
「振り返らないでください。先生が見ても、わたしの認識できない姿格好でいます。逃げている身なので」
それは、鈴木さくらの声であった。俺は、言われた通り、振り返ろうとする首を、元の位置に戻して、また木々に目をやった。
「お久しぶりです」
「はい」
「お手紙、ありがとうございました。わたしが刑務所からいなくなったことで、先生にもご迷惑をおかけしたと思います」
「気にしなくてもいいです。何も知らないという事実を、繰り返し述べたただけですから」
「お元気でおられますか」
「元気はまったくないです」
と俺は、正直に断言した。
「何もすることができないというのが、正直なところです。大事な人間が、いなくなってしまいました」
「それは、あの、同居されていた方ですか」
「そうです。大事な存在とは認識していましたが、失ってみると、想像以上でした。生活する意欲そのものが湧きませんね。今の自分は、ほとんど屍みたいなものです。これまでもそうだったのかもしれませんが」
「失ったのは、わたしのことも関わっているのでしょうか」
「いいえ、関係ありません」
「無礼な手紙を送ったことはお詫びします」
「繰り返しますが、関係ありません。おそらく、彼女がいなくなったのは、彼女にとって、俺が必要なくなっただけのことだと思います」
「不躾で申し訳ないのですが、どういう方なのでしょう?」
「どういう方って――」
俺は、アシナガのことを思い出す。
いや、思い出せないのである。
これほどまでに喪失感の底に沈んでいるのに、俺は、アシナガの顔も、出会いも、生活も、ほとんど思い出せなくなっていた。その事実に、俺は狼狽した。
少しでも思い出せること。そう、作品である。この俺を、守護してくれた、あの、石。
「いろいろな絵を描いたりするのが好きでした。出て行く直前に、きれいににほとんど消していってしまいましたが、ひとつだけ、作品が手元に残りました。今、それは鞄の中にあります」
「もしよろしければ、それを見せて頂くことは可能ですか?」
俺は、後ろを振り返らずに、肩を回して、鞄を背後に送った。誰かが鞄を受け取ったのがわかった。
そしてその瞬間、背後から、何かが池の中に落ちる音が聞こえた。しぶきが飛び散り、水面が揺れる映像が目に浮かんだ。
石が池に投げ捨てられた?
俺が慌てて、後ろを振り返ろうとしたその時、
「振り返るな」
という耳をつんざくような大声が、聞こえた。
その大声に、砂場の子どもたちとその親たちも驚いて、こちらを見た。
「振り返るな。そこには何もない。わたしにも、先生にも」
俺は、ゆっくりと向き直った。背後から、そっと鞄が、俺の隣に戻された。鈴木さくらの白い腕だけが、陽炎みたいに薄く視界の隅によぎった。鞄を手に持ち、中を確かめると、やはり、石は抜き取られていた。
「先生」
「はい」
「わたしは、この世界の行く末を、誰の目にもつかないところで、見定めます。生きるに値するのかどうか、見定めます。それは刑務所の中ではできないことです。だから、出ることにしました。わたしは、エゴイストです。わたしはわたしのエゴのため、ささやかな大事なものたち、子どもたちと、そして先生の行く末を、まったくあずかり知らぬところで、見守り、そして祈ります。振り返らず、さりとて前を向かなくてもいいので、うつむき加減で、ゆっくり足を前に出してみませんか」
「……そうですね」
「ええ」
「顔あわさずとも、ともに」
「はい、ともに」
「戦友として」
「戦友として」
「俺には戦友が多いんだ」
「世界は個人的な戦争で満ちています」
俺は自分の手を、じっと見る。
「ていねいに生活するための、静かな、闘い」
「では、先生、お元気で。さよなら。あなたに幸を」
「ありがとう。さよなら」
そして、背後から気配が消えた。
ズボンのポケットに入っている、スマートフォンが振動した。留守番電話が入っていた。再生ボタンを押して、留守録を聞くと、行政嘱託医の解雇の知らせだった。
俺はそのまま、スマートフォンで木村の妹が入院している○○病院のホームページを見た。採用欄に、精神保健指定医募集の知らせが書かれているのを見つけた。
俺は、すぐに病院に電話をかけた。
「はい。○○病院です」
「もしもし。精神科医師の鈴木という者です。医師の採用の募集を見かけて電話したんですけど」
「わかりました。担当のものに替わります」
帰りに、履歴書を買わねばならない。履歴書に貼付する写真も撮ろう。木村美弥子だっけか、木村の妹の名前は。
まだ、やらねばならないことはある。生きるに値する、やらねばならないことが。
完 令和3年10月18日
鑑定医鈴木 @ryumei
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