第20話 残された者たち
俺は、しばらくの間、鑑定の仕事を休んでいた(措置診察だけはやっていた)。福谷さんから、何度か仕事の依頼を受けたが、すべて断った。
福谷さんが電話で言う。
「鑑定は嘱託医の義務ではないですから、べつに構わないんですけど、あまり断り続けるとうちの上司からの心象も悪くなります。来期以降の契約についても考え直さないといけなくなる。僕としてはそれは困るんです。先生は、今まで関わってきた中でも、だいぶ仕事を頼みやすいので。いろいろあったから、落ち込むのもわかるんですが、そろそろ完全復帰なさってください。僕のためにもね」
あれからというもの、日々、茫然とした生活であった。鑑定も受けていないので、早朝に起きてもやるべきことはなく、俺はまだ薄暗い外に出て、あてどもなく散歩をしたりした。
アシナガは、あれから帰ってくることがない。
アシナガは、突如として俺の日常から消え去った。
アシナガは電話を持っていないので、連絡しようもなく、捜索願も一度は考えたが、やめておくことにした。いくつかの可能性を考えたうえで、ひとつの結論をくだしていたからだ。
アシナガは、恐らくは自分の意思で、俺の前から消えたのだ。おそらく、この先、アシナガと会うことはもうないだろう。それは、不安や推測から、日が経つごとに、確信へと変化していった。
心臓をえぐられたような虚無感と喪失感が、俺の中を浸食した。アシナガのいない世界は、灰色も同然だった。同然だったが、どこか懐かしい気もした。そういえば、アシナガと出会う前はずっと、俺はこんな世界で生きていたのだ。
振り出しに戻る。
そんな言葉が頭の中をリフレインした。
木村の顛末は、ニュースで見て知っていた。木村からの、最後の着信に出られなかったことに、俺は罪悪感を感じた。大手医療機器メーカー経営者の、不肖息子の横領事件。堀り甲斐のあるネタである。木村は、過去の向精神薬取り締まり法違反と、今回の会社経理の女性との関係も暴かれた。
やったことに、何も弁護の余地はないだろう。でも、木村の遍歴を暴き出して、木村のすべてを知ったかのような報道に、俺は腹を立てた。罪は、その人間の一側面でしかない。木村のその行動の背景に、その人間の性質と、環境と、ある種の運命が、どのように複雑にからんでいるのか、誰にもわからない。
もちろん、俺がそんなことを考えるのは、俺が木村と親しくしていたからである。身内でもない人間の背景というものに、想像をめぐらすほど、みな暇ではない。世間はめまぐるしく忙しい。
俺は、短い期間の間に、人生における重要人物二人と、会うことが叶わなくなったのである。
そして、そんなある日、木村から一通の手紙が送られてきた。
<鈴木へ
まずは謝罪の言葉から始めたい。
俺がなぜここにいるのかということが、自分の言葉でなく、おそらくは新聞等によって知られてしまうであろうことを、申し訳なく思う。少なからず迷惑をかけたかもしれない。
なぜこんな馬鹿なことをと思うだろう。俺自身もそう思う。こんなことをして、何の意味があるのか。失うことは怖くないと思って生きてきたが、どうやら失いたくないものもあるようだと自覚できてきた矢先に、俺は失うことになる。すべて自分の責任だ。
そして、こんなことを言える義理ではないのは重々わかっているのだが、お前に頼みたいことがある。それも二つある(なんと不遜で非礼で不義理だと、呆れられることだろう。でも、本当に、お前にしか頼むことができないんだ)。
一つ目は、妹のことだ。
お前に、この間、初めて伝えたが、俺には妹がいる。妹は、統合失調症で、△△市の○○病院に、もう長らく入院している。複数の薬剤で無効の治療抵抗性で、主治医からは先日クロザピンの使用を打診されている。名前は木村美弥子という。
俺がいない間、美弥子のことを、気遣ってやってほしい。具体的に、何かしてくれということじゃない。実際、家族以外の人間が、何かすることはできない。ただ、木村美弥子という人間がいて、統合失調症で長年入院していて、いろいろ大変で苦しんでいるが、なんとか今も生きているという、その事実を、知っていて欲しいんだ。美弥子の幸を祈る同胞が、俺以外にもう一人いてほしい。そしてそれは、お前であってほしいと思っている。本来は、父や兄たちが担うべきことだと思うのだが、彼らにはそれができないんだ。それは、仕方のないことだ。
もう一つは、ある戦友についてのことだ。
俺の居住地の最寄りの駅の、南口にある商店街に、深夜、詩なんだかぼやきなんだかよくわからないものを、延々と読み上げている少女がいる。少女には左腕がない。 彼女の声を聞きに、ここのところ毎晩商店街に行っていた。俺たちと同じく(あるいはこの世で生きているすべての人間と同じく)、日々を戦争に明け暮れる戦友なんだ。
もし彼女と見つけることができなたら、また会おうと、その一言だけ伝えてほしい。
巻き込んでしまって、本当にすまない。
お前との友愛は、俺の最後の糧でもある。>
手紙を読み終えた俺は、財布をポケットにねじ込んで、家を出た。そして、駅ビル内で、クッキーの詰め合わせを購入した。
木村の妹が入院している、○○病院は、名前だけは知っていた。俺は、スマートフォンで○○病院の位置を調べた。ここから、一つ県をまたいだところにあり、電車で片道二時間近くかかりそうだった。
上り電車の急行に乗り、乗り継ぎを挟んで、俺は想定通り二時間程度電車に揺られた。以前であれば、移動時間に本を読んでいたが、今はその気力がわかず、座って寝るでもなく、ただ目を閉じて時間が過ぎるのを待った。
駅について、俺は位置情報を頼りに、○○病院まで歩いた。建物内に入り、面会受付と書いてあるところに向かった。
「家族以外の方との面会はできません」
そうだろうなと思った。そして、事情を話したうえで、クッキーの詰め合わせの袋を差し出した。
「それも受け取れません。ご家族以外の方からの物品の受け取りも制限されているようです」
それも、そうだろうなと思った。俺も医療機関に勤めている時は、どんなに処遇を拡大しても、家族以外の人との面会と差し入れは制限をかけていた。
諦めて俺は、外に出た。そして、正門付近で、振り返った。建物の三階の窓から、誰かが外をのぞいているのが見えた。目を凝らすと、それは、女性だった。
遠目で、顔もはっきりとわからないのに、俺はなんとなく、それが木村の妹であることに、確信を持った。だから、その女性に向かって、大きく手をふってみた。
女性は、こちらに視線を移した。そして、十秒ほどの間があって、ごくわずかに、その手をこちらに向かって振り返した。
俺はそのまま家には帰らず、木村の居住地の最寄り駅で降りた。まだ夕方だったが、ファミリーレストランに入って夕食を食べ、夜になるのを待った。この時も、俺は、四人席のソファにもたれかかって、ただただ閉眼して、時がたつのを待った。
午前〇時近くになったころ、俺はレジで支払いを済ませて店を出た。結局、四時間も店内で時間を潰した。
南口付近の商店街、と書いてあった。商店街のゲートをくぐると、シャッターを降ろした店が立ち並んでいた。
件の少女は、すぐに見つかった。片腕で、詩なんだかぼやきなんだかよくわからないものを読み上げる人間は、目立つし、そう多くない。
少女は、パン屋のシャッターの前で、声を上げていた。つぶやいているような声なのに、よくとおって聞こえてくる。
馴染みありつつあったものが
唐突に失われ
色味を取り戻しかけた世界は
再び灰色にかわる
逢瀬のかなわないこのわたしは
身も心も再び箱の中に閉じ込める
喪失の悲しみを教えてくれたことに感謝する
喪失と感ずるものすら持たなかったから
喪失の悲しみを教えてくれたことを恨む
この痛みから学ぶことは多いだろうが
この痛みに耐えることはかなわない
片翼の鳥よ
その不器用な飛び方で
お前はどこへ飛んで行ってしまったのか
今までも一人で
これからも一人
「木村明治という人間を知っていますか」
俺が少女に話しかけると、少女はやや警戒したような表情で、こちらを見た。
「知らない」
名乗ってすらいなかったのか、と思った。
「ここに、毎晩あなたの声を聞きに来ていたと聞いています。詳しいことは知らされていないんですが」
少女の表情が一変する。眼を見開いて、前のめりになる。
「あの人のこと、知っているの?あの人の知り合い?あの人、今どこにいるの?木村明治って名前なの?」
少女は矢継ぎ早に聞いてくる。
「俺は、木村明治の友人です。木村は、訳あって、しばらく会うことはできません。だから、伝言を頼まれています。『また会おう』と」
「そう……」
少女は肩を落とした。
「会えないのなら、手紙とか、あなたへの伝言とかで、メッセージを伝えることはできるの?」
「いや、たぶん、できないと思います。でも、あいつが『また会おう』と言っているのなら、必ずまた会いに来ると思います。あいつは、定型句の挨拶を嫌う人間なので。エゴイストだけど、大事なものは大事にする人間です。あなたのことも、大事にすると思います」
少女はしばらく、うつむき加減で、黙っていた。しかし次の瞬間、ふと顔を上げ、俺と目を合わせた。その目は、一転、強い意思をはらんでいるように思えた。
「逢瀬かなわぬ片翼の鳥よ
戻る巣はないのかもしれないが
焦がれる者はここに居る
わたしは左の翼をなくし
あなたは右の翼をなくした
手を取り二人 二つの翼で
飛べる日が来ることを祈らせて
待つことには慣れている
待つことには慣らされている
わたしはここで つぶやき続ける
右の翼を磨き続ける
いつかあなたと 飛ぶために」
すると、少女は、目に涙をため、声をあげて泣き始めた。それは、商店街中に響き渡るような、叫びのような泣き声だった。そして少女は、
「教えてくれてありがとう」
と早口でつぶやき、右の手で目を拭いながら思い切り駆け出し、商店街の向こうの薄暗がりの中に、消えていった。
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